自衛隊には「保全隊」という情報管理部門があり、それは公開されている。
先ごろ問題になった隊員の行動監視が表面化して新聞にも取り上げられた。
帝国陸軍の憲兵隊の生き残りがGHQに魂を売ったように見せかけてその後の諜報活動を彼らに委ねたのだが、そのうちの幹部たちは極秘に部下を温存した。
パーフェクト・フリーダムという(自分たちがそう呼んでいるでいるだけの話だが)PF班である。
センシュウこと大本圭吾は東京のN大法学部のころ当時吹き荒れた学生運動に疑問を感じ、右よりの「日学同」に身を投じた、N大の空手部に所属していた彼は屈強な若者だった。
東京中の学生たちが安保反対と叫ぶ中で冷ややかにそれを見ていたのだ。
1970年のある日、日学同の幹部が彼を呼んだ、
「大本、祖国のために死ねるか」
「もちろんです」
「じゃあ、お願いしたいことがある、卒業後は自衛隊に行け」
「は? 私は就職が決まっているのですが・・・」
「ばか、命令だ、自衛隊には極秘の組織がある、そこで祖国防衛の任務に就け」
それは、永遠に思えるような時間だった。窓から差し込む光に室内の埃がきらめいていて、幹部の顔はその向こうのかげりの中にあった。
数秒後大本はうなずいていた。
「わかりました、田中先輩自分はそういたします」と答えていた。
この田中こそ「ブンド」というコードネームで日本の極左~極右までの裏社会の情報を握る存在になってゆく男だった。
その年、11月25日「日学同・純学同」の学生を母体とする三島由紀夫の盾の会事件が起こり、彼らは離散していった。
70年以降、極左共産主義者同盟「遠方から派」と極右「日学同KU派」とが一体となって起こした運動はその後の日本の過激派の行く末を定める契機となった。
これを指揮したのも田中である。世の中は次第にテロの様相をかもし出していた。
特に赤軍派と京浜安保共闘の合体による「連合赤軍」という凶悪な事件が沸き起こる。
71年大本は卒業し自衛隊に入隊した。
大阪の信太山で新兵訓練を受けていたとき最初の接触があった。
「大本君か」
声をかけてきたのは重迫中隊の中島中隊長だった、ニコニコとしている。
「東京から電話があった、まあ、がんばってください」
中隊長はたたき上げの人で、曹から幹部(士官)になった少数派であるとのうわさだった。
「は」といって敬礼をするのが最初の出会いだった。
5年がたち、大本は成り上がりで士官となった。その間レンジャーの資格も取っていた。まさに屈強の戦士になっていた。 重迫中隊長は定年で退官していたのだが、後援会の指導的役割についていた。
彼から連絡があった。
「今度お会いしたいのですが」
「もちろんです」
会合の場所は天王寺都ホテルだった。 この人目に付かないホテルは絶好のところだった。
「大本君保全隊になってくれませんか、連隊長もご承知です」
中島はラウンジの辺りを見回し声を潜めた
「東京の方から、保全隊の中で特別な仕事をと・・・言われているんですが」
とうとうくるべき事が来たのだと大本は思った。