日本の統計学というもの
統計学と言うと誤解してしまうと思うので、前置きを。
統計学といっても私は専門家ではありません。
統計学によって話され、分析されている統計資料をどのようにビジネスに生かすかという観点から統計学には若干の興味がある程度です。
さてはじめます、まずは批判から。
日本で使われている資料に「統計資料」などとカッコいい名前をつけないでほしい。
私にとっての「統計資料」とはもっと美しくあるべきであって彼らが使う資料には統計のとの字も使われいない。
彼らの資料は言葉遊び、特に外来語をカタカナによって粉飾した(粉飾といっても程度の低い)数字でしかない。
資料とはデータであり、数字等を並び立てた情報では何の意味などないではないか。
そして単なる言葉遊びだけで、さも意味があるかのように当たり前に出してきて、それを信じる人も信じる人だ。
統計とは例えば答えを3択で選ばせてはずれを1つ教え、答え変えますか?って有名(分かる人には分かると思うw)なお話の中で使われるものだ。
変えても変えなくても所詮は意味のないものなのに、統計学から言えば変えたほうがいいとされる。
例えそれが一般常識的な判断として整合性がなくてもだ。
そこでその整合性を作るために統計学が使われるべきであって、言葉遊び程度のレベルで人を騙そうとしたところで相手側がより頭の回転が早ければ既に詰み、後は負けるだけだ。
言葉遊びが、つまり統計学として使われてしまっている現状に納得いかない。
私が信じる統計学は揚げ足を取る暇もなく、説得できてしまう最高のツールである。
というか、そうあるべきだ。
逆に言葉遊びをビジネスで使いたい人は統計学など学ばずに、形而上学などの哲学分野を勉強したほうがよっぽど役に立つと思う。
形而上学そもそもが言葉遊びなんて全く思わないが、とても言葉の使い方を考えさせられる学問の1つだ。
日本人は、時代の流れに沿って行動しがちだが、自分のやり方にあった学問を選んで行動すれば、そもそも勤勉であることには間違いないのだから成功しやすいと思うので。
私の場合、多岐に渡り浅くなってしまっているが非常に残念でもあるのだが。
意味のない話を最後までお付き合いいただきありがとうございます。
統計学といっても私は専門家ではありません。
統計学によって話され、分析されている統計資料をどのようにビジネスに生かすかという観点から統計学には若干の興味がある程度です。
さてはじめます、まずは批判から。
日本で使われている資料に「統計資料」などとカッコいい名前をつけないでほしい。
私にとっての「統計資料」とはもっと美しくあるべきであって彼らが使う資料には統計のとの字も使われいない。
彼らの資料は言葉遊び、特に外来語をカタカナによって粉飾した(粉飾といっても程度の低い)数字でしかない。
資料とはデータであり、数字等を並び立てた情報では何の意味などないではないか。
そして単なる言葉遊びだけで、さも意味があるかのように当たり前に出してきて、それを信じる人も信じる人だ。
統計とは例えば答えを3択で選ばせてはずれを1つ教え、答え変えますか?って有名(分かる人には分かると思うw)なお話の中で使われるものだ。
変えても変えなくても所詮は意味のないものなのに、統計学から言えば変えたほうがいいとされる。
例えそれが一般常識的な判断として整合性がなくてもだ。
そこでその整合性を作るために統計学が使われるべきであって、言葉遊び程度のレベルで人を騙そうとしたところで相手側がより頭の回転が早ければ既に詰み、後は負けるだけだ。
言葉遊びが、つまり統計学として使われてしまっている現状に納得いかない。
私が信じる統計学は揚げ足を取る暇もなく、説得できてしまう最高のツールである。
というか、そうあるべきだ。
逆に言葉遊びをビジネスで使いたい人は統計学など学ばずに、形而上学などの哲学分野を勉強したほうがよっぽど役に立つと思う。
形而上学そもそもが言葉遊びなんて全く思わないが、とても言葉の使い方を考えさせられる学問の1つだ。
日本人は、時代の流れに沿って行動しがちだが、自分のやり方にあった学問を選んで行動すれば、そもそも勤勉であることには間違いないのだから成功しやすいと思うので。
私の場合、多岐に渡り浅くなってしまっているが非常に残念でもあるのだが。
意味のない話を最後までお付き合いいただきありがとうございます。
