その日の晩、女は禊の真似事をしに
旧い銭湯へ向かいました。
目的は不安を拭うことにありましたが、
それは体裁上の話で、本当のところは
出来もしない覚悟を決めに銭湯へ赴いたのでした。
  
ああ、そろそろいつもの風呂敷包みを出してきて、
全ての想いをひと思いに包んでしまわねばならない。
きつく、きつく、風呂敷の端を結わえて、
思い出の一つひとつを
深く、深く、仕舞ってしまわねばならない。
 
こうしてはいられない。
だって、逃げ遅れて倒れるのは私だもの……。
 
「紫丹の風呂敷包みを背負って、私はもうすぐ遁走します」
  
毎年秋になると、曼珠沙華がたった一株蘇って、
それがいつだって啜り泣いているあの路地裏を
もうすぐひとりの女が駆け抜けて行くことでしょう。
貴方様、もしそれと思しき女とすれ違っても、
どうか顔を伏せていてやってくださいましね。
間違っても声など掛けないでいてやってください。
 
地べたで無数にのた打っている
恨みや嫉みやなんかを踏みちゃちゃこにして、
脇目も振らず奔り抜けたとしても
きっと逃げ切れないことを、その女は知っています。
これまでだって、不仕合わせに出遭う度、
いつだって結末はそうでしたから。
轍に蹴躓いて、汚らしい泥の中へ
身を投じるよりほかに手立てはないのです。
それでも女は疾走らずにはいられないものなのです。
そうして今度もきっと、
少しずつ少しずつ奈落へ沈んでいくのでしょう。

 

けれど、奈落を抜けたその先には伽藍堂があって、
その伽藍堂だけが、人間の痛みを握りつぶしてくれる
唯一の慰みだということも、その女は知っています。

碧空に圧し掛かる入道雲を
眸いっぱいに湛え、僅かに汗を滲ませる
その横顔(かんばせ)の美しさよ――。

 

少年は俺に問うた。
「かの雲はさんざめく熱気を帯びているだろうか」
「触れればきつと肉厚でいて、脈動すら感じ入るであろうな」
と俺は応えた。
その実体はといえば、しげく無機質で冷静な事物なのである。


炎暑厳しき夏の或日――。
折りしも少年が万象の真理について訊ねたと同刻、
蝶が馬車の轍(わだち)で溺れ死んだ。
我々の居る防風林の脇から
部落へ伸びる畦道で起こった出来事である。

 

もはや蝶は動けぬから、
続けざま車輪に踏襲されるのも致仕方ない。
在らぬ方向に轢き折れた蝶の羽根は、
格子の向こう側で

前後不覚の微睡(まどろ)みに横たわる
女の腕に似ている。
そういえば、あの蒼い女に出合ったのも
旅程で山陰に至ったときのことであった……。
 
振り返れば、畦道の蛇行に沿って
少年が一心に歩を進めていくのが見えた。

 

―― 未完 ――

君は言った。

 

熱を帯びた人間の馨は、極上の沈香にも優る。
馨しきは、細胞の密なる連鎖に成り立つ肉体、
それらに躍動を齎し、また後に生じる、
透明なる、極彩なる、玄妙の体液である。

 

ああ・・・その心酔の馨を我が身に纏うべく、
今この手に人間を掻き抱きたい。
家畜のそれに似て、全く否なるその悦楽の調べで、
どうかこの四肢を震わせて欲しい。

 

馨人に縋り付くとき、
素手素足で夕暮れの塔を一散に駆け登る超人の如く
強烈なるエナジーがこの身中で爆ぜるのである。
煮え滾るエナジーは、ある種の簡素な快楽を押し上げ、
螺旋の旋律に乗じて昇天を産むのかも知れない。

 

噎(む)せ返る馨に蓋(おお)いつくされた薄暮に、
ふわりと飛び降りる戦慄は、
まさに天竺に在る孔雀の落下である。
それでいて奇しくも夜鷹の墜落である。


眼前に降臨するは、

人皮を纏った獣の群れ・驢馬(ろば)の群れ――。