タイトルのとおり、オルフェーヴルの凱旋門賞での鞍上が決まりました。
記事を見たとき、思わず「嘘やろ!」と叫んでしまいました。
私は、オルフェーヴル(内国産馬)が池添騎手(日本のジョッキー)を背に勝つところが見たかった。
一頭と一人が一心同体となって、凱旋門賞のゴールを“一番”で突き抜けるシーンを、この半年間、何度も夢に思い描いてきました。
昨年、スミヨン騎手で負けて、今年は池添騎手が舞台となるフランスに遠征までしてアピールし、おそらく決まるだろうと思っていただけに、かなりショックです。
スミヨン騎手は、確かに世界のトップジョッキーの1人ですが、競馬もスポーツという側面を持っている以上、国際的な大舞台では、日本騎手とのコンビで挑んでほしいです。
特に、今年の凱旋門賞は、狙って勝ちに行く大勝負です。
日本競馬史上、最大の悲願が賭かってます。
だから、ここはオルフェーヴル&池添騎手で……と望んでいるファンはたくさんいるはずです。

去年、スミヨン騎手がオルフェーヴルを把握しきれておらず、それが僅かな騎乗ミスに繋がって負けたことは、もう仕方ないと思っています。
けれど、今年また負けたら、私は一生、スミヨン騎手を指名した社台を恨んでしまう。
社台グループの、常に世界へ向けられた視野とビジョンは認めますし、それがあっての日本近代競馬だと分かっています。
だけど、凱旋門賞は、サッカーでいうWカップ、野球でいうWBCです。
もはや、国の戦いだと思います。
そんな舞台に、鞍上に外国人騎手を乗せてオルフェーヴルを送り出すのは、私は納得できません。
社台さん、勝ち急いではいませんか?
鞍上が外国人騎手であろうと、とにかく勝つことに意義があると?
外国人騎手の方が巧いから、これは当たり前の判断なのでしょうか?
それとも、これは社台にとっても苦渋の決断なのですか?
この先、日本競馬がヨーロッパを中心とした世界の舞台へ、さらに進出を果たすためですか?
オルフェーヴルの鞍上をヨーロッパ人にして、ご機嫌伺いしなければならないほど、日本はよそ者で、生産者も調教師も馬も騎手もナメられてるから仕方ないのですか?
競馬は勝負の世界で、勝つことに意義がある、それは否定しません。
池添騎手がオルフェーヴルの主戦ジョッキーとして、完璧とは程遠いのも分かっています。
けれども、頭ではない感覚的なところで、オルフェーヴルには池添騎手だと感じます。

ディープインパクトが、凱旋門賞直前に現地で嵌められたことは、よく覚えてます。
日本の陣営に一番の落ち度があったのは間違いないですが、フランスから悪意に満ちた罠を仕掛けられたのも確かです。
負けただけでなく、帰国後、禁止薬物検出による失格のレッテルを貼られた事実を、競馬ファンはみんな覚えている。決して忘れません。
だけど、オルフェーヴルは違う。
歯車が噛み合えば、限界を超えた強さを発揮できるポテンシャルを血に秘めています。
苦難や悪意、負の要素の全部を押し退けて、勝利をもぎ取ってこれる馬です。
逆境でこそ真価を発揮した、祖父サンデーサイレンス、父ステイゴールド、そしてオルフェーヴル自身の勝負根性を思い出してください。
気性難で困った馬ですが、正念場では全部受け止めて、キメてきてくれます。
鞍上が、苦楽を共にし、御しきれずともオルフェーヴルを理解した池添騎手で、彼がオルフェーヴルを信じ抜いてさえくれれば、どんな目にあっても必ず勝ってくれます。
逆にいうと、そういう見えない力こそが、あの馬の勝負の最後の瞬間を決定付けます。
紙一重で発揮される爆発力は、そういった危うい不確かなものが後押ししてると、断言できます。

社台創設者、故・吉田善哉総帥が、サンデーサイレンスを笑われながらアメリカから連れ帰り、信じ抜いた結果、現在の日本競馬が築かれたように、競馬は理論とか確率とかを飛び越えた“何か”が大仕事をもたらすことがあります。
オルフェーヴルが全てのジレンマを断ち切って、凱旋門賞を勝つには、そういう“何か”が不可欠に思えてなりません。
スミヨン騎手には、それをよくよく自覚して頂きたいです。
オルフェーヴルを一瞬たりとも過信したり、逆にナメたりしないで頂きたい。
日本競馬史の大きな1ページとなるはずのこの挑戦が、無残に歴史に埋もれないことを願うばかりです。

“鞍上・スミヨン騎手”、この悔しさを、日本のジョッキーはバネにして、日本の騎手も世界に通じるキャリアを今以上に積んでいってほしいです。
決してこのまま終わらせないでほしい。
この現実から何か掴んで、少しでも日本競馬が前進することを願って。