世間はいろいろと忙しそうだが、良いものは良いのであり、私たちはそれを伝える必要がある。
というわけで、今回は、「永遠の愛」を切り口にして、統一原理を要約してみた。![]()
![]()
![]()
↑♪こころのハーモニー(歌も良ければお聴きください![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
)
■愛の永遠性について、真剣に考察してみた![]()
![]()
![]()
私たちは、愛の永遠性と絶対性を信じている。いつまでも変わらない愛を信じている。そして、永遠の愛は、人間にだけ与えられた神様からの恩恵である。動物だって、親は子を守り、群れの仲間で助け合うことはあるが、夫婦で永遠を誓い、一人の相手を愛し続けるのは、人間だけの感性である。
では、永遠の愛は果たしてどこから来るのだろうか。
まず、人間の精神性を見つめたときに、無償の愛、自己犠牲の愛があることに気付く。(一方で、人を傷つけて喜ぶ邪心もあるが、これは、後述する。)親は赤ちゃんが泣いたら、どんなに疲労困ぱいでもミルクをあげ、おむつを替える。大切な人のため、命を投げうつこともある。それだけでなく、見ず知らずの人のために、自分の命を犠牲にする実話はいくらでもある。
このような利他愛・自己犠牲の愛は、進化論や唯物論では説明がつかない。このような精神性は、神様を根源としたものである。(ちなみに、統一原理では、神様は、精神と物質の両要素を併せ持った方であり、精神と物質の根源であると説いている。)
また、自然界を観察すると、ペアシステムが存在することに気付く。
男性・女性、雄・雌、おしべ・めしべ、プラスとマイナス。二性が助け合い、補い合いながら、生存・繁殖を続けている。アメーバみたいに、単体で細胞分裂して繁殖する生物もいるが、それはごく一部である。単純に考えて、単体で繁殖できた方が、圧倒的に生存に有利なはずである。生存に適したものが生き残ると説く進化論では、説明ができない。
それは、神様の創造の理想が、愛だったからである。これは創造の奥深い妙味である。
ちなみに、統一原理では、自然界の男性と女性の性質は、ともに神様を根源としたものであると説く。そして、神様は男性と女性の両方の性質を併せ持った方であり、父母なる方であると説明する。家庭連合では、神様のことを天の父母様と呼んでいる。
さて、永遠なる愛は、神様からのプレゼントであるが、一方で、永遠なる愛を完成するのは、人間の責任分担である。神様は、人間にだけ「とって食べるな(性愛を自分勝手に使うな)」という戒めを与えられた。ほかの動物には、戒めを与えられてはいない。人間は、自動的に完成するのではなく、成長期間に責任分担を果たすことによって完成する。心と体を成長させ、男女の愛を守り、愛を貴いものとして完成させる。これが人間に与えられた責任分担であり、同時に、特権であり、恩恵である。
神様は、人間をロボットとして作りたかったのではない。しもべを作りたかったのではない。神様にとって人間は子供である。そして、子供が自分の力で、心と体を成長させ、愛を守り、幸せな家庭を築き、喜ぶ姿を神様は見たかったのである。そのような立派な子女を誇りたかったのである。親は子供を誇りたいものである。
しかし、一方で人間には邪心もある。人を傷つけても、自己の利益を得たい心がある。邪心に従って生きると不幸になることはわかっていても、なかなかその思いをぬぐえない。人間は、良心と邪心が戦い合い、自己矛盾の中でもがき苦しんでいる。果たして、人間は創造当初から邪心を持っていたのか。神様は、人間を矛盾した存在として創造されたのか。親は、子供の苦しむ姿を見たくないはずであるから、決して、矛盾した存在として、創造されるはずはない。つまり、邪心は、後天的に生じたのである。
人間始祖が、「とって食べるな」という戒めを守れず、自己中心的な性愛に溺れてしまったのである。人間始祖は、神様の願いがわからず、愛の過ちを犯してしまった。これが人間の堕落である。本来、相手のために尽くす愛、永遠に変わらないものとして打ち立てられるはずであった愛が、自己を中心として相手を利用する愛、一時的で刹那的、今がよければそれでよいという愛に変容してしまったのである。これが人間の原罪である。不倫なる愛は、血すじを通して子々孫々に受け継がれてしまった。人間は、不倫なる愛からなかなか抜け出せなかったのである。
神様は、苦しむ人間を救いたかった。しかし、創造当初、人間に責任分担を与えたので、人間が責任を果たすことなくして、人間を救うことはできなかった。これは神様の痛みであり、悲しみである。神様は、人間が不倫なる愛を克服して、神聖なる愛を取り戻せるように、良心に語りかけ働きかけ続けるしかなかった。そして、人間も邪心との戦いに苦しみながらも、良心の声を頼りに、永遠の愛を取り戻すため、たゆまぬ努力を続けてきた。人類歴史は、良心と邪心との壮絶なる闘争の歴史であり、愛を取り戻すための歴史であった。
愛と血統を聖別する中で、ついに、イエス様が神の独り子として、無原罪の方としてお生まれになった。それまでに相当な歴史を費やしている。しかし、人間は無知であり、イエス様の価値がわからず、十字架につけてしまった。愛と血統を取り戻す戦いは、また1からのスタートとなってしまった。無原罪の方が生まれるということは、人間の歴史において、決して簡単なことではない。人間の苦しみと葛藤、命を懸けた信仰、さらに、神様の忍耐と許しの中で、初めて生まれる奇跡である。
そして、2000年のときを経て、やっと、文鮮明総裁・韓鶴子総裁が、神の独り子・独り娘として、無原罪の方として、誕生され、1960年にご聖婚される。これは、あくまでも、私の信仰による話であるが、原理とみ言葉の奥深さ、迫害を越えて愛と許しを実践されたご夫妻の生涯路程、さらに私自身の祈りと実践によって体感したことをもとに、ご夫妻を神の独り子・独り娘として、人類の涙をぬぐう真の父母として、信じ、慕っているのである。イエス様が十字架に架けられても人類を許し愛されたからこそ、キリスト教徒はイエス様を救い主として信じているが、それと同じ道理である。
そして、祝福結婚式は、自分の努力とまごころからの信仰生活も当然必要ではあるが、何よりも、神様と真の父母様の祈りと許しの中で、原罪があがなわれ、新しい命を与えられ、夫婦で永遠の愛に向かって、歩みを始めるという、神聖なる儀式である。私たちは、本気で、永遠に変わらない愛、相手のために尽くす愛を実践しようと努力を続ける。
結論。永遠の愛は神様から始まった。たとえ、堕落して、邪心に苦しむ人類だとしても、良心は永遠の愛を求めている。人類歴史は、愛と血統を取り戻すための戦いだった。そして、痛みと苦しみの歴史を越えて、真の父母様が誕生された。神様と真の父母様の愛と許し、祈りを受けながら、私たちは、本気で、真剣に、永遠の愛を完成させるため、歩みを続ける。
(補足) 永遠を考える上で、死後の世界があるかどうかというのは大事な問題である。私たちは、肉体は朽ちても、たましいは、永遠に生き続けると考えている。親なる神様が永遠の存在なのに、子供である人間が一時的な存在だとは考えられないし、もしそうだとしたら、親としては寂しすぎるし、そういう創造はしないはずである。また、地上生活で磨いた心、紡いできた愛情、積み上げた思いが、死とともに一瞬で消え去ると考えるのはどうしても違和感がある。心は、肉体の死後も永遠に生き続けるはずである。
では、神様はなぜ、地上界と霊界(死後の世界)を創造されたのだろうか。地上界はそもそも必要なのか。実は、地上界は、愛を成長させ、完成させるために必要なのである。時間的・空間的な制約があり、体力面でも限度がある地上の世界でこそ、愛を育てることができるのである。つまり、忙しさや疲れのある生活の中で、誰かを喜ばせるために尽くし、人を幸せにするために限界を越えていくことで、心は成長し、愛は育まれていくのである。そして、地上で紡がれた愛情、心と心で築かれた関係性は、霊界に行って永遠に輝き続けるのである。
(補足2) 人間は神様の子どもである。では、その他の動物や植物をはじめとした自然界は、どういう立場の存在なのか。神様は人間を喜ばせるために自然界を創造された。美しいものを見て美しいと感じ、おいしいものを食べておいしいと感じて、喜べるように、自然界を人間へのプレゼントとして創造されたのである。では、神様は人間とその他の自然界を差別しているのかということが問題になる。端的に言うと、神様は、人間に自然界を愛で主管してほしいと願われたのである。神様が直接に自然界を愛するのではなく、人間を通して自然界を愛するという愛の秩序を構想されたである。つまり、プレゼントとはいっても、人間中心に自然界を搾取して、環境破壊が起こることは神様の望みではないのである。人間が、愛をもって、自然界のバランスを最大限に活かし、人間も自然界もともに喜べる世界を神様は願われたのである。








