代官山が好きだ。住んだ事も働いた事もないけれど懐かしい気持ちになるのは、多分パリに居た時アパルトマンがあった7区と雰囲気が似ているせいだろう。美術館や歴史的な建物が点在する落ち着いた街。あの頃、私に街を楽しむ余裕は無かった。メゾンでデザインの勉強をしながら何の保証もない未来への不安と必死に戦っていた。ただ朝の出勤途中、まだ閑散とした道を歩く時だけが息をつくことが出来る時間だった。私は幸せだったのだろうか?多分、幸せだったのだろう。だから、耐えられた。修行を終えて帰国すると、出来たばかりのデザイン部に配属された。無我夢中だった。ある意味、走り続けているうちは苦しみは快感に変わる。アドレナリン効果。疲れは走り終えた後にやって来るのだ。加藤のバルザは成功した。デザイナーを変えることにより購買層の若返りを図り、ブランドの未来を担保するという会社の思惑は当たった。私のバルザのターゲットは30台前半から40台後半を見据えた。その世代は今ではアラフィフ以上になっている。全ての世代に受け入れられる商材を作るのは並大抵ではない。ハイブランドだけに許される事で、普通のブランドはレジェンドに胡座をかいてなどいられないのだ。妙ちゃんは文字通りのハイブランドに移り、会社を出る勇気の無い私は残った。残った以上、与えられた仕事を受け入れるしかない。私はささやかな抵抗を試み、却ってトレンドの変化という現実を目の当たりにすることになった。私は変化を認め、プロモーションに持てる全ての情熱を注ぎ込んだ。それは正解だった。新バルザを軌道に乗せて私の居場所は保たれた。収入は増え、未来への不安も解消された。けれど、周りが誉めてくれればくれるほど、心の中には漫然とした空虚感がつのっていった。私の目標は会社の中で昇進することだったか?私が望んでいたのは安定した生活だったのだろうか?今の仕事や待遇に不満はない。むしろ充分すぎるくらい。けれど、心にぽっかりと空いた穴はどうすることも出来ない。ゴールが見えてしまった。私の時代は終わり、後は年齢を重ねるだけ。人間の寿命は限られている。やがて命が尽きる時、私は自分の人生に満足出来るのだろうか?何かが足りない気がする。「何か」は分かっている。けれど、それは私にとっては永遠に手の届かないものだ。いっそ全てを投げ出して新しいフィールドに漕ぎ出せば、また先の見えない海面に身を置けば、それを望む「贅沢な」悩みを消し去ることも出来るかもしれない。
(本当にそうしたい?)
答えは分かっている。私は望み過ぎなのだ。母に継父に縛られていた子供時代に比べて今の自分はどれ程自由であることか。人間は所詮無い物ねだりの生き物。叶えられれば次の夢を実現しようとする。際限がない。やりきった最期を迎えることが出来る人が世の中にどれだけいるだろう。皆どこかで妥協して生きている。
3日前、大山妙子からメールが来た。エッフェル塔をバックに夫と娘に囲まれたスナップショット。
「しばらくパリに滞在。ついでに旦那と娘も連れてきたよ。二人とはすぐにお別れだけどね。久しぶりの家族団らん。」
妙ちゃんは自分には無い全てを持っている。キャリア、スキル、そして「家族」。「家族」は私には手が届かない。愛する身内がいる彼女は今以上に何を求めようとしているのだろう。挑戦して止まないモチベーションの根源は何処にあるのだろう。いや、「家族」があるから彼女は挑戦し続けられるのだ。娘は高校生くらいだろうか。妙子とよく似ている聡明そうな端正な顔立ち。自分にも同じくらいの子供が居てもおかしくないのだ。
「I miss you !Why don't you come here, and work with me ?」
冗談とも本気とも取れない誘いを、そこだけ英語でかけてくる。
「ハーフかよ。そこはかつてヒトラーが凱旋写真に収まった場所だよ。」と嫌みを呟く自分が居た。本音は羨ましくて仕方ないのだ。
窓を開ける。昨日までの残暑が嘘のように涼しい風が吹き込んでくる。
「良い匂いがする。」
「そうですね。金木犀の香りかな?」
仲根はすっかり逞しくなった。どこか妙子の娘に似ていると思うのは気のせいか。私が苦手なIT系の仕事をほぼ丸投げしても文句も言わず、そつなくこなす。失敗しない。というより、節目毎に報告をする事を怠らない。最近の若手にありがちな独りよがりな所がない。だから、間違いがあれば私の責任。私はそれを負う覚悟は出来ている。無ければ重要な仕事を任せることなど出来ない。それくらい私は仲根を信用している。けれど、所詮は仕事の「身内」であって、血を分けた「身内」ではない。仲根の方はどうなのか?冗談にせよ「一生ついていく」と言ってくれた彼女。アラフォーにもなって家族を持たない、男を好きになれない自分を本当はどう感じているのか?怖くて聞けない。私には全てをさらけ出せる相手がいない。
「そろそろお昼にしようか?」
「はい。ちょうどこの辺に美味しいイタリアンのお店知ってるんですよ、穴場的な。」
「お高いお店?」
「それがいたってリーズナブルで、かつ味は最高!しかも駐車場付き!」
ハンドルを右に切ると、仲根は細い抜け道を器用に走り抜けていく。
「彼と来たの?」
「え?まあ、そうです…。」
浮かれていた仲根の声が一瞬マジ声に変わる。その後、彼とはどう?他愛の無い問が私には出来ない。
「仲根さん、『fu-sha』って店知ってる?」
「知ってますよ。モデルのMSYUMIが立ち上げたブランドで、若い子達にわりとウケている感じです。私は大人しすぎて物足りないけど。マーケティングですか?後で見てみます?」
「ううん、ちょっと知り合いの娘さんが好きなブランドらしくて、どんな感じかなと思っただけ。場所知ってる?」
「いえ、そこまでは。でもググればすぐ出てきますよ。」
「そだね。今度プライベートで寄ってみるわ。」
「プレゼントですか?」
「そんなところ。」
スマホは便利だ。店の住所を調べることなど朝飯前だ。住所をナビに打ち込めば間違いなく目的地まで案内してくれる。けれど、近づくにしたがって気持ちは反対に遠ざかっていく。鼓動が高鳴っていく。里奈とはメールで連絡は取り合っていた。けれど、忙しくて合うのは久しぶりだ。里奈の気持ちが冷めていたらどうしよう。会えなかった事で気を悪くしていないだろうか?クライアントとのミーティングには全く感じない不安。恋だ。美大時代、先輩に抱いた思い。私は里奈に恋している。そう思うと身体の奥が熱く疼く。はしたないと思って頭を降ると、里奈の笑顔が頭に浮かぶ。そう、里奈の笑顔さえ見ればこんな不安は全て吹き飛んでしまうのだ。
ジュリエッタをパーキングに入れ、店まで歩く。「fu-sha」は代官山にふさわしく落ち着いた店構えをしていた。南仏風の白壁に黄色の窓枠。ネイビーに白文字で描かれたfu-shaの文字が眩しい。タレントの店にありがちな軽い感じが全くない。コンクリート打ちっぱなしの構えに無機質なギアを合わせるBAとは大違いだ。覚悟を決めてドアを開ける。ラバンジンのアロマオイルの香りが淡く漂ってくる。
「いらっしゃいませ。」
奥で商品の乱れを直していた店員が声をかける。目で「ごゆっくり」と言葉をかけると再び視線を棚に戻す。直ぐに寄り添ってくることはしない。買い物に来た時には気が楽でも、今日は「お探しものは」と言葉を継いで欲しい。店内を見回す。洋服以外にも雑貨も扱っている。空間をうまく利用し、実際より広さを演出した店内のどこにもMAYUMIを感じさせるものはポートレイトも含め何ひとつない。商材で勝負したいのだろう。
「あの、川口さんは今日はお休みですか?」
「店長は今席を外してますが…。」
「ああ、そうですか。」
緊張が一瞬に引いていく。そして、げんきんにもわいてくる安堵。
「後、一時間もすれば戻って来ると思いますが…。」
「あ、いえ、急に来た私が悪いんで。あの、軽く羽織れるカーディガンとかあります?」
「はい、ちょうど新作のものが。こちらへ。」
店員が示す方についていくと着心地の良さそうなカットソーやカーディガンが並ぶ。どれも淡いパステル調だ。水色の物を手にした時、店員が申し訳なさそうに顔を覗き込んだ。サイズがないのかと思って顔を上げる。大丈夫ですよ、と返事を用意しつつ待った言葉は違った。
「あの、失礼ですが、田崎礼亜様でいらっしゃいますか?」
(えっ?)
「そうですけど。」
「やっぱり。店長からお話は聞いてて、こういう素敵な人が来たら直ぐに連絡入れるように言われてるんです。何があっても戻るからって。今連絡入れます。」
「気になさらないで下さい。」
「いえ、私が怒られますから。」
店員は言い残すと、返事を待たずにカウンターに戻って行った。
「可愛い色。」
値札を見る。思ったより高め。素材はピュアカシミア。柔らかい。サイズを確かめてカウンターに向かう。
「これ、頂きます。」
「ありがとうございます。店長10分くらいで戻るそうなので、お待ち頂けますか?今お茶お入れますね。」
店員は別の店員に会計を指示して、自らはバックヤードに入って行った。