皆さん、こんばんは。
アニメで、Caligulaというのを見ていました。
久々に見応えのある作品でした。
ただ、ものすごく哀しい。
そして、痛い。
今書いているストーリーにも通ずる部分もあり、恐ろしく感情移入してしまいました。
作中、何度泣いたことか。
また、μ(ミュー)という電脳世界の少女の歌が、心に突き刺さる詩とメロディーで泣けてくるんです。
この作品を見ていて、ふと思ったことがありました。
それが、今日の主題になります。
仏教とは、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)が始めたものですよね。
今ではアジア各地に広まっていますが、その本質は何だったのか、なのです。
Caligula のテーマは、「幸福とは何か」ということなのですが、そもそも宗教というのは本質的に幸福を追求するためのものですよね。
仏教ももちろんそうです。
が、仏教が他の宗教と根本的に違う所があります。
それは、魂の昇華による解脱、成仏という概念にあります。
成仏とは、単に死んであの世へ行くことではありません。
仏陀が説いたのは精神的成熟、存在としての昇華であって、唯一神を無批判に崇めることではありません。
それは己の鍛錬であり、精神的成長を促すものであったはずで、今あるような仏教の形は後付けのものがほとんどだと思います。
また、仏陀が説いているのは、ユングの深層心理学に近いものがあります。
人の意識はほんの表層部分であり、意識されえない無意識の部分は無限大です。
心理学では大体5パーセントが意識だとされていますが、私は無限小だと思っています。
無意識は、フロイトでも、抑圧すればするほど意識に悪影響を及ぼすと言っています。
仏陀は、この意識と無意識を統合することによって、より完全な存在になる方法を示そうとした。
それが仏教の本来の姿であると確信しています。
ところで、仏教には如来とか菩薩という存在があります。
仏陀も如来で、釈迦如来と言いますよね。
如来とは、解脱した者で、この世での修業が完了した存在を言います。
大して菩薩はまだ修行の身で、現世で衆生を救う存在とされています。
如来でも釈迦如来以外は転生を繰り返し、衆生を救うとされています。
菩薩も、本当は如来になれるにもかかわらず、現世に留まっている存在も多いとされます。
ですが、定義上如来は解脱者であり、一切の欲望を持たないとされています。
如来は完全にニュートラルであり、自己完結しているので、人々を救うという望みすらないのではないか。
ふとそう思ったのです。
そしてもし、ニュートラルな思考のまま、無垢な思考のまま人々の幸福を望んだとしたら……
それが、(μ)という存在なのではないのか、と思ったわけです。
如来はニュートラルであるが故に、人々の思考を反映し、望む世界を現出させる。
世にネガティブな思考、哀しみ、苦しみ、憎しみが蔓延すると、それが如実に反映される。
故に、如来。その文字の通りに。
今の世を見ていて、本当にそう思います。
アニメの中でも、そのような場面が描かれています。
自分が幸せなら他者はどうでもいいとか、自分というものすら失って数字だけの富や利益を追求するとか。
どろどろとした欲望、他者への抑圧、残虐性の発露、身勝手……そういうものを現実化させてゆく。
どうしても這い上がれない、何をやっても拒絶される、まるでいないかのように存在自体が無視される。
それでいて、好きなだけ利用されてボロボロになって……
必死で助けを求めても相手にもされず、絶望のうちに死んでいった人たち。
最近でも、アイドルの自殺とかありましたよね。
そういう思いは決してなくならない。
世に不幸な人が増えれば増えるほど、如来の力もマイナスになり、望まぬ事態は雪だるま式に増えていく。
それが、いま世界で展開されている現実の原因だと思うのは、穿ちすぎでしょうか。
久しぶりに内容の濃い作品を観て、とても考えさせられました。
いつも、相当濃い内容にもかかわらず、読んで下さってありがとうございます。