なんとなく ヨーロッパ -167ページ目

 なんとなく ヨーロッパ

 フランスに住んでいるので、パリとフランスの話が多くなると思いますが、
 まぁ気分で。

 

 

奇跡講座 テキスト編 p141 – p144
 
あなたが一つの声だけを聞くとき、あなたは決して犠牲を払うように求められはしない。
それどころか、他人の中の聖霊から聞くことができることにより、あなたは彼らの経験から学ぶことができ、彼らの体験をあなた自身が直接経験することはなくても、それらから益することができる。
On the contrary, by being able to hear the Holy Spirit in others you can learn from their experiences, and can gain from them without experiencing them directly yourself.
その理由は、聖霊はひとつであり、耳を傾ける者は誰でも、必ず聖霊の道をすべての者に実証するように導かれるからである。
 
私が学んだがゆえに教えなければならない一つのレッスンは、聖霊の判断にそぐわないどのような知覚も正当化できないというものである。
 
私は、神の子の誰もが苦しむべきではないということを、神とともに意志している。
 
十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。
愛だけを教えなさい。それがあなたの本性だからである。
The message of the crucifixion is perfectly clear.
   Teach only love, for that is what you are.

十字架刑についてこれ以外の解釈をするなら、あなたはそれを、その本来の意図である平安への呼びかけとしてではなく、猛攻を加えるための武器として用いている。
使徒たち(the Apostles)はしばしばそれを誤解したが、その理由は、他の誰もが誤解する理由と同じである。彼ら自身の不完全な愛により、彼らは投影しやすくなっていた。また、彼ら自身が恐れていたために、神の報復の武器としての「神の怒り」(wrath of God)というものを語った。また、彼らは十字架刑についてもまったく怒りをもたずに語ることができなかった。なぜなら、彼ら自身の罪悪の感覚が彼らを怒らせたからである。

これらは新約聖書の上下が転倒した考え方のいくつかの例である。しかし、本当はその福音は愛のメッセージ以外の何ものでもない。
These are some of the examples of upside-down thinking in the New Testament, although its gospel is really only the message of love.
使徒たちが罪悪感を感じていなかったなら、彼らは、「平和にあらず、剣を投ぜんために来たれり」と私が語ったと引用することはなかったはずである。これは明らかに、私が教えたすべてのことの正反対である。

また、彼らが本当に私を理解していたなら、ユダに対する私の反応を、あのように描写しなかったはずである。私が裏切りを信じていたのでない限り、私が「汝は接吻をもって人の子を裏切るのか」と言ったはずがない。私がそのようなことを信じていなかったということが、十字架刑の伝えているメッセージのすべてである。私がユダの上に呼び起こしたと言われている「処罰」も、同種の間違いであった。ユダは、私の兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった。罪の宣告は不可能だと実証する用意ができていた私が、彼に罪を宣告しようとすることが、あり得ただろうか。
Nor could they have described my reactions to Judas as they did, if they had really understood me. I could not have said,“Betrayest thou the Son of man with a kiss?” unless I believed in betrayal. The “punishment” I was said to have called forth upon Judas was a similar mistake. Judas was my brother and a Son of God, as much a part of the Sonship as myself. Was it likely that I would condemn him when I was ready to demonstrate that condemnation is impossible?

使徒たちの教えを読むときには、当時はまだ彼らが完全に私に従う準備ができていなかったために、後にわかるようになることがたくさんあると、私自身が彼らに語ったことを思い出しなさい。
 

   ◇    ◇    ◇
 

昔、僕がまだとても若くて世間というものを知らなかった頃、『キリストは、どうしてユダを見捨てたのだろう。』と思っていたことがありました。
でも、いつしか世の中の考え方に慣れ、そのような思いも忘れてしまったのでした。
 
 
 
〔 2017年 イタリアの旅 41 〕 9月16日(土)
 
ブレラ美術館は中庭のある建物の2階でした。
古いイタリア絵画が多い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
べつに宗教画が好きなわけじゃないんだけど。
中世の美術というと、宗教的なものが多いからね。
 
 
 
 
写真はストロボを使わなければOKだって。
数もけっこうあったし、いいものも多かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

〔 2017年 イタリアの旅 40 〕 9月16日(土)

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院は、
前回行かなかったというか、修理中で入れなかったから、(かなり昔の話ですね) 
今回できれば行こうかと思ったんだけど、昨日ネットで調べたら完全に予約制だとか。
10日くらい先まで予約でいっぱいみたい。
『・・・まぁ、いいや。』
入っても15分しか見ていられないらしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
ドゥオモの横にあるガラス天井のアーケードも、一応写真を撮りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

通り抜けるとスカラ座がありますね。