383年、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍が淝水の地で激戦を繰り広げました。後にこの戦いを淝水の戦い(中国史上最大の戦い)と呼ぶようになり、「風声鶴唳、草木皆兵」の典故はここから由来しています。

 

  前秦と東晋の対峙

 

357年、前秦の苻堅は華北をほぼ統一し、南では、司馬睿が南京で東晋王朝を開きました。

 

383年5月、苻堅は大臣たちの反対を押し切り、出兵することを決心しました。同年8月、苻堅は歩兵60万、騎兵27万、羽林軍(皇帝直属の部隊)3万の大軍を率いて、東晋に侵攻します。一方、東晋の司馬曜は、謝安や桓沖らの提案を受け入れ、淮河の西岸沿いに8万の軍を配備して前秦軍に抵抗し、さらに龍驤将軍胡彬に水軍5千を与え、寿春を救援させました。

 

同年10月18日、前秦軍は寿春を占領し、そして、東晋軍の西進を防ぐため、5万の兵力を洛澗(洛澗での戦いは淝水の戦いの序幕で、両者間の戦いに大きな影響をもたらしたと言われている)に布陣し、更に淮に柵を設けさせて、行路を遮断します。

 

寿春陥落の報を聞いた胡彬は硤石まで撤退して、死守しましたが、食糧が底をついたため、救援を求めました。しかし、思いがけずに救援の手紙は道中で前秦軍の手に落ちてしまいます。苻堅はこの隙に侵攻を早めるべきと考え、8千の騎兵を率いて寿春へ向かい、同時に東晋軍に降伏するよう、朱序(東晋の軍人、もとは襄陽に駐屯していたが、襄陽が陥落した時、捕らえられた)を使者として派遣しました。

 

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