「痛定思痛」は痛みが治まってからも、その痛みを思い起こすことから、かつての失敗や苦難を思い出して反省し、今後の戒めとするという意味です。

 

1275年頃、モンゴルの元軍は、南宋末期の政治家であり、使者でもある文天祥とその一行を理由もなく拘束しました。彼らの本拠地へ向かっている道中、文天祥一行は隙に乗じて脱出に成功しました。その後、一行は国に戻り、守将の苗再成と戦略を討議しました。

 

国境司令官の李庭芝は、文天祥が元軍に投降したと勘違いし、文天祥を殺すよう苗再成に命じました。しかし苗再成は殺すことができず文天祥を見逃しました。文天祥は誤解を解くため、自ら李庭芝の所へ釈明に向かいましたが、李庭芝はすでに指名手配文書を張り出していました。文天祥は仕方なくその土地から離れていきました。

 

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