明治末、透視や念写の能力を持つとされる女性二人に対して、その能力の存在を肯定する東京帝国大学と京都帝国大学の学者がそれを証明すべく公開実験を行った。実験は幾度か行われたが、その過程で、否定的な者による妨害が行われたり、実験で不正があったのではないかとの疑いが生じたりして、マスコミや学術界を巻き込んだ「千里眼事件」に発展した。結局、科学者やジャーナリストを十分に納得させるだけの結果が得られず、「千里眼は科学に非ず」という見解が発表されて、この事件は幕引きを迎えることになった。

 

「千里眼」とは、千里の果てまで見通すことのできる眼ということで、『魏書、楊逸伝』を出典とする。

 

北魏(386年-534年)の末のころ、楊逸(よういつ)という29歳の若者が光州(こうしゅう)の長官として赴任してきた。楊逸は、兵士が出征する際には、風雨を厭わず自ら見送りをし、飢饉の時には蔵の食糧を放出して老人や病人のために炊き出しをしたりなど、庶民を気遣った政治を行った。その一方で、役人や軍人が庶民に対して威張るのをいたく嫌った。

 

【続き】

 

 

【関連記事】