中国の史書には、無実の人を殺戮する武将が応報に遭うという話がたくさん記載されています。『明史』と『史記・李将軍列伝』から抜粋した二つの話をご紹介しましょう。

 

明朝の将軍徐達と常遇春の異なる因果応報

 

明朝の初代皇帝である朱元璋(しゅ・ げんしょう)には、徐達(じょ たつ)と常遇春(じょう ぐうしゅん)という二人の武将がいました。常遇春は敵の城を攻め落とした後、3千人近い捕虜を生き埋めにしました。一方、徐達の兵はどこへ行っても、決して罪のない庶民を傷つけることはしませんでした。

 

徐達は死後、「中山王」という位が贈られ、その爵位は子孫の代にまで受け継がれました。一方、常遇春は40歳の時に、病であっという間に亡くなりました。彼は死後、「開平王」という位を贈られましたが、息子の常茂はその爵位を受け継いでまもなく竜州へ左遷されました。

 

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