第4話

 

邦男の脳裏にはまざまざと六十五年前のスミがよみがえっていた。スミが嫁に来てくれるとうなずいたときのあの静かな目だ。

 

 あの時のために、自分の人生があった──邦男はそんなふうに考えている自分に驚きながら、きっとその時に自分の人生は終わっていたのではないかと思いあぐむ。記憶は鮮明で、あの時以上の幸せは、その後なかったように思えてしかたがない。同時に邦男は震えだしていた。生死と同じくらい大事なことをし忘れて、その後のスミの六十五年があったとしたら──そう考えついたのだ。やがてにがい喉の奥からでた言葉は意外なほど素直だった。

 

「すまんかった。スミちゃん」

 

 邦男が気をもむほど、スミの沈黙は長かった。しばらくして、すこし鼻にかかった声が届く。

 

「邦男さん、お腹すいてませんか?」

 

 邦男でも察しがついた。泣かしてはいかん、それだけはまずいと慌てた。

 

「そ、そうだな。何か二人でたべようか」

 

 と、言いながら飛び起きて電気をつけ、

 

「ついでに二人で風呂にで……」

 

 湿った空気を払いのけるためにそう軽口を言いかけて、襖を覗くと仏壇が見え、そこには腹上死した御仁が鎮座していたのであった。

 

【続き】

 

 

 

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