序文

 

暴政と言えば、中国人は秦の始皇帝による苛政と焚書坑儒を連想するものがある。始皇帝の「天下の資産が尽きるまで政治のために」《漢書・食貨志》という暴虐は、集中的に4つの方面に現れた。「情け容赦のない租税の取り立て、人民の財力を功名心の赴くままに乱用、近隣も連座させる過酷な法律と刑罰、思想統制と焚書坑儒」があげられる。秦が中国を統治した時代、およそ1千万の人口に対して、2百万人の労働者を強制的に徴用した。始皇帝はさらに過酷な法律と刑罰を思想の領域に広げ、はばかることなく思想の自由を束縛し、かつて政治を批判した儒学者を千人あまりも殺害した。

 

このような「虎狼の秦」と比較しても、共産党の暴虐は勝るとも劣らない。よく知られているように、共産党の哲学は闘争の哲学であり、共産党の統治も、内外の「階級闘争」、「路線闘争」、「思想闘争」で作り上げたものである。毛沢東は「始皇帝など取るに足らない。彼は460人の儒学者を殺し、私達は4万6千人の儒学者を殺した。人は私達を独裁統治だと、始皇帝のようだと罵るが、それも認める。しかしながら、それでは言い足りてはいない。言ってみれば、それどころではないのである」と率直に言った。[1]

 

共産党統治下の中国の苦難に満ちた55年を少し振り返ってみよう。中国共産党が政権を奪い取った後に、いかにして政府の構造を利用し、階級闘争の理論で階級を絶滅させたのか、また、どのように暴力革命の理論で恐怖の統治を実行したのか。「人を殺し」、「心を殺す」ことで、共産党以外のすべての信仰を弾圧して、自らを美化し、中国で「神をつくる」運動の幕を開けた。共産党の階級闘争と暴力革命の理論によって、反体制の社会階級と異分子を粛清し、それと同時に暴力と欺瞞により、中国人民を専制支配下の従順な民としていった。

 

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