序 

「憎悪」を国家の支柱とする共産党

 

共産邪霊は主として「憎悪」によって構成される。「憎悪」は物質的存在で一種の生命であり、生命力をもつ。つまり、「憎悪」は共産邪霊を構成する根本的要素である。

 

「憎悪」は怨恨(えんこん)と異なる。怨恨は怨(えん・憎いと思う気持ち)が有って恨む。原因や理由があるがゆえに現すのに対し、「憎悪」は何の原因も理由もない。サタンのイエス・キリストに対する「憎悪」やマルクスの神に対する「憎悪」は邪悪の極まりの「憎悪」である。これは邪悪の命の維持、救世主への嫉妬、不倶戴天(ふぐたいてん・同じ天の下には生かしておかない意でそれほど恨みや憎しみの深いこと)の敵としての敵視、打倒し壊す意欲をもつ凶悪感情と腐敗物質である。

 

「憎悪」は神への反対と神の排除をもたらす。宇宙に存在するあらゆる生命は、それぞれ異なる次元があり、神は次元の高い生命であることを認めるがゆえに神を敬う。しかし、サタンは「憎悪」と嫉妬をもち、神が自己より次元の高いことを認めず、神に挑発したため下界へ撃ち落とされた。

 

共産邪霊は「憎悪」によって構成されている。また、苦心してそれを人々の心に注ぎ込み「憎悪」の物質的要素を人々の体のミクロの世界へ注ぎ込み、人々の生命の組織部分と化した。人々の人間性の中にある悪の部分、例えば嫉妬、争う、暴虐(ぼうぎゃく・むごいこと)、殺しを好む等がかき立てられてしまうのである。そのため、共産中国の物質的場の中で、すべてと言ってよいほどの人々がこの「憎悪」に包まれてしまい、ほとんどの人は全く自覚しない「憎悪」をもってしまうのである。共産邪霊が扇動、挑発すれば、すぐにも噴出しそうになるこの物質は、巨大な負のエネルギーと化し、人々の生活空間を素早く覆うことになる。「憎悪」は原動力として、暴力と殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)を催す。1870年代、ならず者により興(おこ)されたパリ・コミューン(パリ市の革命自冶体)は、共産主義者が暴力による政権奪取の理論を初めて実践し、マルクス、エンゲルスからその後の共産党党首レーニン、スターリンおよび毛沢東により再三誉めそやされるほどである。マルクスはパリ・コミューンの「経験」を総括する時、その失敗の原因は、まさにプロレタリアート(無産階級)の暴力で国家権力をぶち壊さなかったところにあるという。「プロレタリアートは単純に政権を奪取するだけでなく、暴力により現存するすべての制度をぶち壊さなければならない」。これこそが後になって、共産主義の根本的立場として祭りあげたプロレタリアート独裁暴力学説である。「憎悪」を推進したことにより、中国共産党は、「プロレタリアートによる独裁政権の下での継続革命」を推し進めた。

 

【続き】

 

 

【関連記事】