前回、劉備がどのようにして部下の忠心を得たのかをお話ししました。「忠」の代表的な人物が岳飛です。皇帝自ら「精忠岳飛」の4文字を書き残しました。では、なぜ岳飛が「忠」の代表的な人物となったのでしょうか?

 

岳飛は幼いころから武術を習い、二十歳になる前には、すでに150kgの大弓を射るまでに至ったといいます。また、歴史書や兵書にも長け、まさに文武両道です。岳飛の母は国家防衛に尽力せよという期待を込めて、その背中に「尽忠報国」と彫り残しました。岳飛もまたこの通りに行いました:

 

  1、国に忠を尽くす

 

戦乱の世の中、当時、金の軍隊が南下し、北宋の皇帝・徽宗と欽宗、そして、大勢の后妃、公主たちが連行され、北宋は滅亡しました。これが後に「靖康の変」(1126年)と呼ばれている事変です。

 

一方、徽宗の9人目の息子・趙構は南京に逃亡し、南宋を開きました。岳飛はこのような歴史的背景の下で生まれたのです。岳飛は生涯、126もの戦いに参加し、一度も負けたことはありません。その勇猛果敢な戦いっぷりに金はどんどん敗退していき、ついには岳飛の名を聞くだけでも肝を抜かすほどとなりました。

 

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