董卓は、摂政を務め、皇帝を侮辱し、都で一般民衆を虐殺することで、公然と民衆の敵、国家の裏切り者の立場に身を置いたのです。董卓を討伐しようとする人が続々と現れました。

 

真っ先に立ち上がったのは、越騎校尉(騎馬軍を指揮する武職)である伍孚(ごふ)です。成功しても失敗しても、彼の正義たる行動は、全国各地での蜂起の引き金になるでしょう。つまり、全国で大衆による蜂起の機は熟していたのです。伍孚の次は曹操、曹操の次は文官の王允が引き受け、いわば武将がリードし、文官が計略を駆使して、ついに姦賊である董卓を滅したのです。
 

  義を果たす忠臣の二つのやり方

 

漢の大臣たちは忠と義を実践するために、2種類の方法を取っています。一つは、伍孚のように死を覚悟して義理を果たします。董卓が少帝を殺し、献帝を立てた時に宮中で血を流した尚書である丁管もそのような者です。もう一つは、命を捨てる覚悟を持ちながら、簡単に命を捨てず、屈辱に耐え、力を蓄えて悪人を殲滅するタイミングを待つのです。曹操や王允、後の関羽や劉備もそのような人です。

 

どちらの方法も、世の中で賞賛されていますが、具体的な状況が複雑に変化していくことを考えれば、後者の方がより実践し難いのです。この二つの方法は、『三国志演義』の中で十分に描写されており、後世の人々がさまざまな状況に遭遇したときに、参考となる選択肢がたくさんあります。

 

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