作者の羅貫中は、『三国志演義』を通して、「天地人」の三才という形で天人合一の人文観を伝えるようとして、主導的な力は天にあることを人々に知らせようとし、同時に地上の人々が様々な形で義を「演じる」ことを表現しようとしていました。

 

漢の末期では、「帝ではない帝、王ではない王」という奇妙な歴史的現象が長い間続いていましたが、この特殊な時期において人々は違う形で「義」を演じるのです。つまり、朝政が不安定で、皇帝の実権が不確定の時期で、人によって「義」に対する理解や実践が異なり、「義」の現れようも異なり、豊かです。

 

  正式な君主がある時期の義の現れ方

 

『三国志演義』で最初に登場したのは、「桃園で結義する」という話です。劉備関羽と張飛の三人が、黄巾軍の反乱を鎮め、国の平和を取り戻すという目標のために結義しました。国のために力を捧げようと思っています。作者はこの物語を描きながらも、劉備三兄弟の「義」に対する理解や実践の姿を描写することを忘れていません。

 

劉備は、関羽と張飛との結義の目的を果たし、幽州の太守に協力して反乱軍を撃退しました。その後、師である盧植が中郎将として軍を率い、広宗で張角と対峙していることを知り、師のため、国のため、すぐに幽州を離れ軍を率いて盧植のもとに行き、戦いに協力しました。

 

盧植に会った劉備は、朱儁と皇甫嵩が率いる軍隊の情報を調べるように言われ、直ちに夜道を歩いて颍川まで行きました。朱儁と皇甫嵩に会った劉備は、張角の二人の弟である張宝と張梁が敗北し、広宗に逃走したと聞き、また急いで広宗に戻ろうとしました。

 

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