“霊帝の末期、黄巾賊が蜂起すると、各州、各郡はそれぞれの兵を動員し、劉備は部下を率いて鄒靖に赴き、実力で黄巾賊と戦い、安西の尉官を解任させました。これは歴史書『三国志』の中で、劉備が賊を倒して安西府の尉官になったことを記した原文です。これは、黄巾軍の真実は国賊と判断されており、中国の近代史教科書で歪曲された農民の蜂起ではなかったことを示しています。「州・郡の志願兵」こそ歴史書で認識されている義勇兵であり、各州や郡の政府が組織したボランティアで、官軍とともに黄巾賊と戦ったものです。

 

劉備の軍隊は、政府の義兵召集を受けて編成された軍隊でした。『三国志演義』の冒頭の物語は、劉備が国と民のために身を捧げ義兵を育て、三人の英雄・劉備、カヌ、張飛が「桃園で結束」して賊と戦うというものです。この意味が逆行してしまうと、何千年も前から称えられてきた国民的英雄が意味を失い、国民から愛されなくなり、尊敬されなくなり、中国の文化や人間としての仁義の概念に疑念を抱かせ、ひいては否定されることになります。ですから黄巾軍の基本的な認識が歪曲されれば、善悪が逆転し、後世の人がそのような歴史を知ると、祖先や伝統文化を疑い、道徳水準が低下するのは目に見えています。現在の中国はすでにそうなっています。

 

つまり、小説とはいえ歴史小説を書いた作者の狙いは明確で、ストーリーを通して教えたり、楽しませたりして、「義」の価値を伝えることが目的なので、まずはどちらが義兵なのかを明らかにする必要がありました。これは最も重要なことであり、絶対に歪曲してはならないものです。 登場人物や物語はフィクションであっても、そこに表現されている「義」の概念は変えることは許されません。ですから、作者が仁義を説く主人公の劉備や、忠義を説く関羽・諸葛亮は、正義の味方でなければならないのです。そのため、「桃園の結義」の冒頭ストーリーの背景を詳しく説明しています。

  道教の術を悪に使い報いを受ける

 

黄巾軍の頭である張角は、どうして気象を操り、符水という道教の術で人の病気を治すことができたのでしょうか?その中の原因は、善と悪にあると作者は明確に説明しています。

 

本には次のように示されています。「当時、鉅鹿郡には張角、張宝、張良という3人の兄弟がいた。張角はもともと優秀ではなかった。薬を採りに山に行くと、藜(アカザ)の杖を持った青い目の童顔の老人に出会い、洞窟に呼ばれて天書を3巻渡してこう言った。「これは太平要術と呼ばれるものだ、それを手に入れれば、天国を宣言したときに世界を救うことができるが、異心を持っていれば、悪報を受ける」。張角が名前を聞くと老人は「私は南華老仙だ」と答え、清風になって去っていった」

この一節は、張角が農民ではなく、鉅鹿郡の落ちた学者であり、そして異心を持っていれば、悪報を受けることになるということも指しています。

 

なぜこの言葉が重要なのでしょうか?それは、天の書を手にした者は、「天に従って、世を救わなければ、その報いを受けることになる」という張角への警告だからです。天が彼に天の書を与えたのは、様々な奇跡を起こすような道教の術を身につけ、特別な能力を持つようにするためで、決して栄光や富貴のためではありません。

 

ここの文は作者が読者に、仙人の術が実際に存在し、仙人が一人の者を選んで天の書を伝え、その人がある程度の奇跡を起こして人々の病気や苦しみを和らげ、信者を得て天に代わって道徳教育を広め、道徳的に堕落した世界に善悪の報いがあることを理解させ、人々の心を正し、徳と善行を重んじ、人々を救うという目的を達成することを伝えているのです。

【つづく】