目次 

 

1. 法律と信仰

2. 法律―共産党政権の道具
a. 法の支配を受けない国家テロ
b. コロコロと変化する善悪の基準
c. 堂々と法律を無視する中国共産党

3. 共産主義が欧米で法律を歪めるやり方
a. 道徳を破壊する法律
b. 立法と公布の権力を掌握
c. 邪悪な法律を作る
d. 法律の執行を制限する
e. 外国の法律でアメリカの主権を脅かす

4. 法の精神を復活させる

参考文献

 

 1.法律と信仰

 

公正と正義を維持するための鉄則は法律の遵守である。法律は善を肯定し、悪を罰する。何が善で何が悪なのか、その概念は法律を作る者によって決まる。信仰があれば、その概念は神の教えに由来するだろう。実際、宗教の教義には人類社会を治めるための基本的な法が示されている。

 

世界最古の法典の一つ、古代バビロンのハンムラビ法典(The Code of Hammurabi)には、メソポタミアの太陽神シャマシュがハンムラビ王に法を授けるイメージが刻まれている。これは、神が王に法律を授け、民を治めさせることを意味している。

 

ヘブライ人にとって、旧約聖書の十戒は、この世の法律と共に神聖な戒律である。十戒が欧米における法文化の基礎をつくったと言っても過言ではない。4世紀のローマ皇帝、東ローマ帝国のユスティニアヌス1世、また英国アングロ・サクソン時代のアルフレッド大王など、多くの王たちがモーゼの十戒やキリスト教から啓発を受け、法典を編集した。【1】

 

宗教の信者にとっては、神が定めた善悪および宗教の教義に則った法律こそ合法である。ローマ皇帝はキリスト教徒たちにローマの神々を崇拝し、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の前に皇帝の銅像を建てることを強制したが、信者たちは磔や火あぶりになることを選んだ。神の掟は世俗の法律を超越し、神聖で犯すことのできない法であるからだ。アメリカで見られる暴力を使わない市民的不服従の背後にあるのもキリスト教の教えである。

 

一般的に、十戒には二つの内容があるとされている。一つは神と人間の関係であり、神に対する正しい崇敬の念を示している。もう一つは人間関係であり、自分を愛するように隣人を愛しなさいという教えである。神への畏敬の念は、人類が公正や正義を変わらず維持するために不可欠な要素である。

 

古代中国にも同様の教えがある。歴代の皇帝(天子)は天地の摂理に従い、勅令を出して法律を発布した。この摂理とは、老子あるいは黄帝が唱える「道」という信仰である。漢王朝の学者・董仲舒(とうちゅうじょ)曰く、「偉大なる道は天に由来する。天は永遠に変わらず、道も変わることがない」。【2】 古代中国人が意味する「天」は自然現象ではなく、偉大なる神のことである。道の信仰が中国文化を支え、道徳を形成した。数千年にわたり、中国の法律は道の影響を強く受けていた。

 

アメリカの法学者ハロルド・J・バーマン(Harold J. Berman)は、法律は社会の道徳や信仰と共存しなければならないと主張した。教会と国家は分離しても、相互に依存している。どのような社会においても、正義や法律という概念の根源は、すべて神の領域にある。【3】

 

つまり、法律には公正と正義を実行する権限があり、それは神から与えられたものである。法律は公明正大であるだけでなく、神聖である。現代においても、法律の力を強化するために、多くの宗教的儀式を行うのはそのためである。

 

 2. 法律―共産党政権の道具

 

共産党は反有神論を掲げるカルト集団である。彼らは法律の原則である神の教義に逆らい、古代から受け継がれた文化や価値観を断ち切ろうとする。共産党には最初から、公正や正義を貫くという発想などない。

 

a. 法の支配を受けない国家テロ

 

キリスト教は、自分を愛するように隣人を愛しなさいと説く。儒教では、仁者は他人に寛容であると教える。ここで説いている「愛」とは男女間の狭い「愛」、あるいは家族愛や友愛などに制限されるものではなく、寛容、慈悲、正義、無私、美徳など、より広い意味を含む。この文化的な基盤があって初めて、法律は神聖になり、人間社会の愛を体現する。

 

いくら法制度が整っていたとしても、すべての紛争に対応することはできず、対立する両者に公正な判断を下すことは難しい。従って、法律は具体的であるだけでなく、関係者すべての主観も考慮に入れるべきである。判事は法の精神に則り、博愛の原則に基づいて判決を下す。

 

イエスはエルサレム神殿でファリサイ派の信者たちに厳しく注意した。彼らはモーゼの十戒に忠実でありながら、正義や慈悲、誠実さなどに欠け、偽善的だったからだ。イエスは安息日に人々の病を治し、異教徒と過ごした。彼は律法の根底にある慈悲の精神を信じ、実践した。

 

一方、共産主義の根元は憎悪である。共産主義は神を憎み、神が与えた文化、生活様式、伝統を嫌う。マルクスは、彼自身が世界を破滅させる王者になると宣言している。「軽蔑と共に、世界の顔に俺の手袋を投げつける。俺は創造者として、廃虚を凱旋するのだ!」【4】

 

ロシアの熱狂的な革命家セルゲイ・ネチャーエフ(Sergey Nechayev)は、『革命の教理問答』(The Revolutionary Catechism)の中で、「革命家は、彼自身と、社会秩序、法律、道徳、習慣、常識にもとづく文明世界の絆を断ち切る」と述べている。「彼はそれら(文明)の敵であり、もし彼が引き続きそれらと共に生きるならば、それは文明を速やかに破壊するためである」【5】

 

ネチャーエフは世界を憎み、自分が法律の権限を超えると信じていた。彼は聖職者の言葉「教理問答」(カテキズム)を用いて、世界を軽蔑するカルト的な思想を説明した。「世界に少しでも同情する人物は、革命家ではない」レーニンも同様の考えを持っていた。「独裁主義は、超法規的な強制によって治める。プロレタリアート(労働者階級)の革命的な独裁主義とは、ブルジョワジー(資本家階級)に対する暴力によって維持され、また法の支配を受けない統治である」【6】

 

法的制限のない殺戮や拷問、集団的罰則を行う政治とはつまり、国家テロのことである。この冷血で残虐な政策は、昔の共産党政権の特徴である。1917年にボルシェビキがロシア政府を転覆させた直後、政治闘争の中で数千人が虐殺された。ボルシェビキは秘密組織チェーカーを設立し、任意に人々を処刑できる権限を与えた。1918年から22年にかけて、チェーカーが裁判なしで処刑した人数は200万人を下らないと言われる。【7】

 

元共産党の宣伝部第一副部長アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ(Alexander Nikolaevich Yakovlev)は、彼の著書『ビターカップ:ロシアボルシェヴィズムと改革運動』(Bitter Cup: Russian Bolshevism and Reform Movement)の前書きで述べている。「この1世紀だけで、ロシアでは戦争や飢餓、圧政のために6千万人が死亡した」。彼は公文書から、ソビエトでの迫害キャンペーンにより死亡したのは2千万人から3千万人であると推定している。

 

1987年、ソ連共産党政治局は委員会を設立し、ソビエト政権下で身に覚えのない疑いをかけられた冤罪について再調査を行った。数千件に上るケースを調査した後、ヤコヴレフは書き残している。「狼狽せずにはいられなかった。この暴挙に加担した奴らは精神的に狂っていると言えるが、しかしその説明では、この問題を単純化しすぎる危険性がある」【8】

 

つまり、共産主義下で行われた残虐な行為は、常人の考えや衝動が生み出したものではなく、入念に計画されたものだったことを彼は示唆している。この犯罪は世界全体の利益を目的としたものではなく、生命に対する深い憎悪のためである。暴挙を繰り広げる共産主義者たちは決して無知なのではなく、はっきりとした悪意に基づいている。

 

ソビエト政権が樹立すると、国家テロは中国、北朝鮮、カンボジアへと飛び火した。『九評共産党』の「第七章:共産党の殺戮の歴史」で述べられているように、中国共産党は改革開放期の前に、6千万人から8千万人の人々を殺害した。これは、2回の世界大戦における死者の数を超えている。【9】

 

【つづく】