№31 山内一豊を読んでみて・・・ | 月を見上げるもぐらのように

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日記及び読んだ本や面白かったサブカル感想(ネタバレ有り)を書きたい、なと思ってみたり、みなかったり。

どうもこんばんはー^^、ブログ更新率UP作戦展開中の秀次です。

どうにか三日坊主を免れ今日で毎日更新4日目となりましたハッピー
いつまで、続けていけるのか解りませんが、お付き合いくださる心の広い方に感謝です。
(まぁ・・・内容の方は相変わらずグダグダですが汗 )

さて、昨日一昨日とブログネタに困って、四苦八苦しておりましたが、本日は昨日読み終わった、日本の100人『山内一豊』さんの感想をUPする予定なので、本日も広い心でお付き合い下さい。

 
↑土佐の太守 山内一豊さんです。

山内一豊さんと言えば、大河ドラマ『功名が辻』で全国区になった戦国武将なので、流れをサクッと語って、秀次がヘェ~ってなった部分をご紹介しようと思います。

山内一豊のお話~♪
・尾張の国、岩倉織田家の家老 山内盛豊の子として生まれる赤ちゃん 

・お父さんが、織田信長の敵だったので、あっさり家を滅ばされる刀 血しぶき
(ここで、お父さんと上の兄達お亡くなりになります)

・ 親戚の家を転々としながら、就職先を探すが、初陣前の若者に世間は優しくなかったようです。なき 
(因みにこの段階で、お父さんの代からの一部の家臣はそのまま一豊に仕えていたようです。・・・どうやって生活していたのでしょうか???)

・いつ頃かはっきりしないが、秀吉の与力として働き始める燃える 

・人生のパートナー 千代さんと結婚するwedd 
(婚礼の夜に、千代さんは一豊さんに『私があなたを必ず大名にしてみせます』と誓ったとの言い伝えがあるそうです)

・秀吉の中国毛利攻めに従軍するあんぱんまん 
(このごろ一人娘の与祢姫(よねひめ)が生まれる白雪姫)

・信長が京都で行った大馬揃えに参加? 
(有名な一豊と千代の内助の功の逸話ですが、史実かどうかわからず山内家の公式資料にも言及されていないそうです)
それでいいのか顔文字(+´・_・`+)ン? 太田黒(おおたぐろ)ウマ 
※おおたぐろというのは、千代さんがお金を出してくれて買えた馬の名前です。

・信長が本能寺で、明智光秀に殺られる切られた 

・山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに秀吉側で参戦。

・これまでの功績が認められ、長浜ではじめての城持ちにキラキラ 

・その後、長浜で2万石貰い、豊臣秀次の宿老になるaya 

長浜を襲った大地震で一人娘の与祢姫と多くの家臣を失う
( ゚Д゚)ヨネヒメェェェェ~

・家康が関東に領地替えになり、一豊が掛川5万石を与えられる。

・秀吉が実子秀頼に跡を継がせる為、関白豊臣秀次を自害させる切られた 

・秀吉が亡くなる。家康と仲良しになる。

関ヶ原の戦い勃発!
千代さんの石田三成の勧誘状と自分の考えを書いたお手紙、一豊さんが自分で読まずに、家康さんに差し出せ作戦発動お手紙 

同僚の堀尾忠氏さんが考えた、戦の前に自分のお城を家康さんに明け渡したら、覚えよくなるんじゃねぇ~?という作戦を堀尾さんより先に作戦会議の場で宣言する。言った者勝ち作戦実行怒 

※結果関ヶ原本戦ではたいした活躍してないのに、土佐20万石への栄転を果たす。

・新領地の大高坂山に『河中山城(こうちやまじょう)』を築く城 
※この河中(こうち)高智に変わって現在の高知となったそうです。

・長宗我部の家来達による叛乱が相次ぎ、鎮圧に手間取る。
(最終的に、一豊の企画した大相撲大会を開き、観戦に来た一揆の関係者73人を捕まえて磔の刑に処したそうです)
※それだけ一豊さんは長宗我部の家臣達にビビッてたんでしょうねえ~しみじみ 

・自分の跡継ぎとして弟 康豊の子 忠義を養子に迎える。

・一豊が亡くなり死亡 千代は京に移り住む。

・大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家が滅びる火事 

・千代が亡くなる死亡 

以上、山内一豊のお話でした~〆

さて流れをサクッと書くと言いながらまたも長々書いてしまいました汗 

続いて秀次が、へぇ~ってなったエピソードを幾つかご紹介します。

秀吉が中国毛利攻めをしていた頃、とても寒い冬の日に、寒さに耐えかねた兵士達が、体を温める為大根を炭火焼にして食べていた所、一豊の家臣の人が、とても良くできた焼き大根を一豊にすすめたところ、
一豊は『大根を食べると息の臭いが悪くなり、秀吉公のお側によりづらくなってしまうから』と断ったそうです。
どんな時でも、礼儀を重んじるのは、出来る男の嗜みってやつですかね キリッ 

また一豊は、戦国武将には珍しく、千代以外の側室を持たなかったと伝わっています。一人娘の与祢姫を長浜地震で失った後は跡継ぎ問題もあったので、なおさら側室が必要だったはずです。
しかし、一豊は側室を持たず、一説には妻の千代の方が跡継ぎ問題の為積極的だったとする説もあるそうです。
千代が、『身分の低い一介の侍ならばともかく、大名に実子がいないのは家臣の不心得。あなたたちにお家のためを思う気持ちがないからです。不届き極まりないことです。』と家臣たちを厳しく叱責した話が伝わっているそうです。
本では、一豊がついに側室を持たなかったのは、実子で血統をつなぐことよりも、夫婦間の信頼関係を維持することを大切に思っていたためであろうと書いています。

秀次もこんな風に思える一生のパートナーに出会いたいものですなぁ~ポッ 

それでは、長くなってしまいましたが、本日もこのくらいで終わろうと思います。秀次でした~(。・ω・。)ノ