1936年『日本初のプロ野球試合』2月9日

日本初のプロ野球球団の発足は米国遠征へ出発する巨人の壮行試合(3連戦)。
これが「日本初のプロ野球試合」と位置付けられています。2年前に結成されていた巨人と全米、あるいはアマチュアの試合はありましたが、巨人の相手となるプロチームはまだなかったからです。(プロ同士)

当初は2月1日の予定でした、降雪のため延期。さらに8日も雨天中止となり、球史に刻まれるのは翌9日になりました。

天丼1杯40銭という時代の入場料は、指定席が1円50銭、外野席は50銭とリーズナブルだったようです。

 

1950年代の鳴海球場(1958年7月)の写真

藤本定義監督率いる巨人は、沢村栄治がすでに大エースとして君臨していた時代です。4番はのちの初代三冠王・中島治康、三塁手は水原茂でした(対する金鯱軍は産声を上げたばかり)監督が二出川延明。前年まで巨人に在籍していたが、監督としてよりも「オレがルールブックだ」との名言を残した審判として有名だそうです。主将の島秀之助も、後に審判に転身。こちらは42年5月24日、史上最長の延長28回(名古屋-大洋戦)の球審を務めています。遊撃手の濃人渉は、その延長28回では大洋の2番打者としてフル出場。戦後は中日、ロッテで監督を務めています。

 主戦投手は内藤幸三。当時「右の沢村、左の内藤」と称された本格派で、金鯱軍-東京巨人戦でも7回から登板し、巨人打線を封じています。試合は序盤から金鯱打線が爆発し2番手で登板した沢村をも打ち砕き、10-3で勝利を収めています。先述の名古屋新聞は「鳴海球場に揚る歴史的歓呼」と手放しの喜びようだようですね。

花咲き乱れる美しさと世界に誇る広さもあった当時の球場はただ、地の利が薄かったようです。当時は愛知郡鳴海町で、名古屋市編入前で48年には中心部に近い場所に「中日スタヂアム」が完成しています。鳴海は高校野球と中日2軍の本拠地として使用されながら、徐々に影を薄くしていく様子で、それでも杉下は54年に「日本一になれたのは鳴海育ちの選手がいたから」としみじみと話しています。

私も「鳴海球場」と聞いてもどこにあるのだろう?!
今でも知名度としては感じてしまいます。(愛知の人ごめんなさい。)多くの野球ファンですら、知る人ぞ!知る昔の球場なのかもしれません。

◆鳴海球場アラカルト
 ▼所在地 愛知県愛知郡鳴海町(現在は名古屋市緑区鳴海町)
 ▼完成 1927(昭和2)年10月。球場開きは愛知一中、愛知商、名古屋商、明倫中、熱田中、東海中が集まって行われた
 ▼収容 当初は2万2500人。2度の改修をへて4万人規模に。甲子園の「アルプス」にならい「伊吹スタンド」と呼ばれた
 ▼切符で入場 中等学校の試合で多く使用されたが、完成当初は愛知鉄道(現名鉄)の乗車券を見せれば入場できた。そのため、近隣の住民も短区間の乗車券をわざわざ購入したとか
 ▼スキーも 39年には北陸地方から雪を運搬し、スキー大会を開催。ほかに相撲大会、体操会場として使用されたことがある
 ▼閉鎖 プロ野球は53年が最後。58年の高校野球秋季愛知県大会で幕を閉じた

 跡地は自動車学校に
 鳴海球場の跡地は、現在「名鉄自動車学校」となっている。スタンドの一部が使用され、上空から見る地形は球場のまま。教習コース内には銘板も設置されているが、球場の使命を終えてから58年。その歴史を知らない人は増えています。
「父からも、祖父からも聞いたことがありませんでした」。先祖代々、名古屋市緑区で暮らす中日の大島洋平だが、何度も近くを通った場所でベーブ・ルースがプレーしたのは初耳だったそうです。

 だが、そんな球史を小耳に挟み、名鉄自動車学校をアポ無しで訪問していたスター選手がいた。宇野勝だったんです。そう!!あの。?!みのもんたのプロ野球珍プレー好プレーでも有名な!!!ヘディング事件。笑

本人いわく(宇野)

 「そうそう。何回か行ってみたんだよ。そんな歴史があるのなら、自分の目で見ておきたいと思ってね」。かすかに面影の残る跡地に立ち、ベーブ・ルースやジョー・ディマジオの打撃に思いをはせたのかもしれない。

 

巨人の「沢村」と名前を聞くと多くの人は、現役の「さわむら」を

想像してしまうことでしょう。

 

文京区の東京ドームにある野球博物館は

何度いっても歴史を感じますね。

殿堂入りがつねに更新されていますし。

 

 

参考資料/日本野球の歴史(野球殿堂博物館 文京区)

http://www.baseball-museum.or.jp/showcase/storage/history.html

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