ここ3ヶ月程度、某コンサルタントの仕事で、箕面市の瀧道(箕面駅前から箕面大滝までの延長2.7kmの遊歩道)の一の橋付近に位置する橋本亭の調査を行っている。橋本亭は明治43年に建てられた和風木造3階建ての旅館建築であり、箕面市都市景観条例に基づく都市景観形成建築物に指定されている。後継者橋本亭 難等から休業していたが、平成16年6月から、TMO箕面わいわい株式会社が箕面市による「既成市街地 活性化緊急特別対策」の「地域商業にぎわい創出緊急補助事業」を活用し全館借り上げ、橋本亭再生を行ってきた。同年7月にプレオープン、同年11月にグランドオープンされ、現在は、1階がカフェ「cafe and bar Hashimototey」、ギャラリー「ぎゃらりー いち」、和雑貨店舗「和みの蔵 橋本亭」として、2階が各種イベントの場所「清流の間」と倉庫、3階が倉庫として利用されている。衰退している瀧道の活性化のため起爆剤となることが期待されている。


11/24に瀧道の一部(箕面駅~瀧安寺)を歩いてきた。この区間の瀧道は大きく2つの顔をもつ。一つは一の橋~瀧安寺の自然遊歩道区間、もう一つは箕面駅~一の橋の観光商店街区間。

自然遊歩道区間は、箕面川沿いの遊歩道で、この区間には、箕面山荘や昆虫館など10件程度の建物しか建てられていない。ところどころに休憩スペースが設置され、自然を楽しむことができる。これらの装置はいずれも人工的になりすぎず、うまく作られているという感じがした。川の流路(地形)に合わせてつくられた曲がりくねった道の膨らみ部分などに休憩用のベンチが置か れている。また、川に下り水に触れることもで きる。遊歩道03 箕面山荘 遊歩道01 遊歩道02 今回はちょうど紅葉の季節であったため、紅葉が非常にきれいで、休憩施設も多くの人に利用されていた。

観光商店街区間には、土産物屋が立商店街02 地し、各店舗前では紅葉てんぷらが調理されている。この通りはシャッターを閉める店も多く、箕面市ではその活性化に頭を悩ませているという。今回は、紅葉の時期であったため、多くの人が訪れ賑わっており、いつもはシャッターが閉まっている店も開店し、広場には露店(なぜかパン屋)も出店されていた。

今回歩いた印象としては、自然遊歩道区間よりも観光商店街区間に問題が多いと 感じた。

土産物屋はそれぞれ色鮮やかな色彩を使用して頑張り、商店街01 自己アピールし、良く言え ば活気のある雰囲気を 出そうとしている。しかし、それは「それぞれ」でしかないのである。それは、シャッターが閉まった商店や駐 車場、民家や集合住宅を間に挟んで、2~3件のまとまりごとに点 々と立地しているため、土産物屋が建ち並んでいるという連続性がない。歯抜け状態である。また、箕面山荘や梅屋敷といった純和風の歴史的建築物が自然の中に溶け込むように点在する自然遊歩道区間から、色鮮やかな土産屋が点在する観光商店街区間に入ると少し興ざめしてしまう。商店街が悪いわけではない。もう少しまとまり、全体の方向性のようなものがあれば良いと思う。それが、土産物屋が両側に建ち並ぶ賑わいのある商店街にするという方向を目指すのであれば、それはそれで良いと思う。しかし、現在の状況はどうも中途半端な気がする。全体の方向性が見えないままに、一つ一つが主張しているという状況なのだと思う。

これは道路舗装についても言える。観光商店街区間の舗装はどこにでもあるインターロッキングによる美装化が施されている。しかし、インターロッキングにする意味が分からない。自然遊歩道区間からつなげようという意識はないようだし、沿道の衰退している商店街の雰囲気にも合わない、舗装も色鮮やかな土産屋と同様に、主張している要素のひとつでしかなくなっているように感じた。

このように、それぞればらばらな統一感、方向性を持たない観光商店街区間は、現在は、瀧道の入口に位置しているから仕方なしに通るという通過点にすぎない存在と言っても過言ではない。紅葉のてんぷらや箕面地ビールの販売などなど、地域資源や地域イメージを上手く利用していこうとしており、やり方次第では非常に面白い通りになる可能性をもっていると思う。地域資源を利用するということは、それだけが一人歩きしてしまうと、単なる乱用でしかなくなってしまう。地域資源を利用するだけでなく、その恩恵を地域に還元していくこと、つまり、商売だけを考えるのではなく地域全体を考え、そのイメージや方向性に合わせていくという気持ちが必要があるのだと思う。

いずれにせよ、全体のイメージや将来の方向性を決め、それを地元で共有しておく必要があるのだと思う。

11/13に数年ぶりに服部緑地内の日本民家集落博物館を訪れた。 マップ

日本民家集落博物館は、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と併せて展示するために、1956年に日本で最初に設置された屋外博物館である(博物館としての登録は1960年)。敷地面積は約36000㎡。敷地内には12棟の民家(国指定重要文化財4棟、大阪府指定文化財5棟、未指定3棟)がある。

三船康道らは地域によって採るべき方法は異なるが、歴史的建造物の活用方法は「地区型」「ネットワーク型」「野外博物館型」の3つがあるとしている(「新・町並み時代」より)。「地区型」は歴史的建造物が集中している地区が対象とするもので、伝建地区はこの類型に入る。「ネットワーク型」は歴史的建造物が地域に点在している地区が対象とし、それぞれを連携させ、ネットワークを構成することで地域の全体的なイメージを創造していくというものである。長浜の黒壁などが代表的な事例である。「野外博物館型」は、現地保存が難しくなった場合に、移築し一ヶ所にまとめて公開展示する方法である。日本民家集落博物館はこの類型に当てはまる。

野外博物館型の活用方法は、活用といっても公開展示であり、建物の本来的な活用とは異なることや地域性を無視した凍結保存でしかないことなどへの批判もあるが、この方法は、現地保存が不可能な場合の最終手段として、この方法なりに重要な役割を果たしていると思う。

その1つは、様々な民家タイプを展示することにより、日本の歴史的民家に対する知識や関心を高める点、容易には行ってみることのできない地域の民家や民具から日本各地の文化を学び、比較できるという点である(逆に現地に行かずとも知った気になってしまうという反面もあるかもしれないが…)。

2つ目は、博物館として運営されているが故に、実際と比べると小さな領域で、過去の生活システム(少し言いすぎであるが)を再現し、過去の風景を再現することができ、現在は集落に行ってもなかなか見ることができないような、また現在の子供、特に都市で育つ子供は体験することすら難しい伝統的な日本の生活や雰囲気を味わうことができる点である。実際に、修学旅行や遠足などで来た学生が、民家の中で横になって休憩し、民家の広さ、住宅の豊かさを感じ、ゆっくりと流れる時間の良さを感じているそうである。

その他にも、写生スポットとして多くの人がスケッチをしていたり、中には歴史的な民家を背景とした撮影(多分商品の撮影だと思う)もされていたり、様々なイベントも開催されており、多様な利用がされている点でも評価できる。

以上のような評価は、空間をうまくつくり上げている点、管理をしっかりとしている点などにも起因している。民家集落博物館は、「博物館」であり「集落」ではない。どちらかというとテーマパークに近い存在であると言える。そのため、自然発生的な集落環境を人工的に作り上げる必要があり、下手をするとニセモノ(ニセモノには違いないが・・)のうそ臭いものとなってしまう恐れもある。しかし、民家集落博物館はニセモノにしてはうまく空間 を作り 上げていると感じた。くり ほしがき 大根畑

博物館であるため人が生活していない。そのなかでいかに生活感を出すかという部分に気が配られている。実際の集落よりは生活感がないのは仕方ないが、様々な工夫が見られた。博物館内には畑もあり、ねぎや大根など栽培されている。柿、栗、梅、桜などの様々な樹木が植えられ管理されている。いろり

干し柿やゆで栗が干されている演出も面白い。

囲炉裏に火を入れている。日によって火を焚く民家は変えており、今回 は2件で火 が焚かれていた。人の居住していない茅葺き屋根の茅の管理のためのものであるが、入館者の休憩場所ともなり、ゆっくり囲炉裏のそばに座って歴史的な民家の空間的なゆとりや歴史を感じることができる。囲炉裏で焚く薪は民家集落博物館敷地内の木を使用しているそうである。博物館内の周辺を取り巻く樹林地を里山のように使用し、管理されており、博物館という狭い範囲ではあるが、1つのシステムが構築されているようである。 みち 窓から

民家の窓から見た景色は、石組みと緑が手前に、そのむこうにかかしが垣間見え る。かかしの立つ農地と 道の間には柵が設けられているのだが、古い竹でつくられたもので、のどかな農村集落をイメージに適している。

博物館内には、祠や供養塔などもある。道は舗装されておらず、踏み固められたところが「ミチ」となっている。

人が住んでコミュニティを形成しているわけではないため、集落構造(中心性の欠如や民家の配置とオープンスペースの関係など)などは、やはり実際の集落とは異なる。各空間要素単位でみると非常にうまく作り出さ れているが、その関係性までを表現するには、やはり、人が生活していない全国各地の地域性をもった民家を集めてきた博物館では限界があるのかと思う。トイレ

以上のように非常に細部までこだわった空間となっているが、あえて2点言うとすると、1つ目は、公衆トイレ などのデザインである。歴史的なイメージを出そうとした努力はよく分かるのだが、どうも違和感を感じる。歴史的要素を取り入れた建物ではあるが、どこか違うのである。このような建物をトイレとして使うという点でおかしいと感じるのか、それとも建材や色彩、プロポーションの問題なのか…。もう1つは、サインなどの現代的な細かな要素である。多くのサインは木製であったが一部鉄製で高彩度色のサインが目立っていた。また、喫煙場所はブロック塀で囲まれていたり、赤い消火栓がむき出して置いてあったりしている。

これら2点(公衆トイレなどの建築物とサインなどの細かな要素)に共通するように、歴史的にある集落空間たまごなす の要素ではない、新しいニーズに応えて作られるもののデザインにもう少し気を配ってほしいものだ。

最後に博物館入り口で栽培されていたかわいらしい「たまごなす」。 どんな味がするのだろう・・・

10月23日に5年ぶりに京都府伊根町に行ってきた。伊根5 (右写真)

前回の訪問は天橋立のついでだったため、伊根集落をあまり見ることができなかったが、今回は伊根集落を目的にした。しかし、あいにくの雨で写真撮影もなかなか大変。今回伊根に行こうと思ったきっかけは、今年7月に伊根集落が伝 建地区に選定さ れたこと。今後良い悪いは別にして(伝建地区だから良くなることを期待しているが・・・)変わっていくであろうこの集落の現状を撮影しておこうと思ったからだ。 伊根2

伊根湾は日本海側にありながら南向きで、その出入り口には青島があることもあ り、波は穏やかで自然の良港となっている。そのような自然条件を活かし、海岸線に沿って細長く集落が形成され、舟屋が建ち並んでいる。海側からは海に面して切妻妻入りの舟屋(全体の約9割)が建ち並ぶ姿が美しく見える(右写真)。

現在の町並みは、明治前期から昭和初期の鰤景気と昭和15年に完了した府道伊根港線の拡張工事による。この工事は、舟屋・蔵を海側に移し、母屋と舟屋の間に道路を通すものであった。舟屋の屋根はかつては草葺きであったが、鰤景気によりその多くは瓦葺へと変わり、現在は全て瓦葺となっている。舟屋の内部は、海から舟を直接格納するため石敷きのスロープが設けられており、漁具の格納や網干しなどにも使われている。現在は2階に居室を設けるものが多くなっている。現在は舟が大型化してきているため、舟屋の中に入らなくなり、外に出されているものも多く見られる。

このように、道路拡幅工事による集落構造の変化、舟の外部への停留などという時代の要請に応じた変化は許容しつつも集落の価値が認められている。これは、伊根独特の舟屋の連続が歴史的な価値のある景観的特徴として評価されていることが大きいことは確かである。しかし、その背景には、集落の背後の山とその山裾のわずかな敷地にへばりつくように形成された集落、その前面に広がる伊根湾という景観構造が作り出す美しさなども関係しているように感じる。

そのような景観構造を感じることができるのが、伊根湾周遊の観光船である。1時間に2回、30分間の観光船で、伊根の集落の説明もされている。集落を様々な視点から見ることができ、皆に集落の良さを知っても伊根3 らうためにも良い方法だと思う。また、海側から見ることにより、集落内を歩いているだけでは見えづらい集落の問題点、景観整備上の問題点なども感じることができる。先ほど挙げた、舟が舟屋の外に停留されている状況もよく分かる。また、背景の山の中で非常に浮き立ってしまっている山肌の法面工(法枠工)なども見ることができる(右写真)。

しかし、観光船に乗ってみると、誰も説明を聞いていないのだ。聞いてい伊根4 ないどころか舟屋すら見ていない。皆、船のまわりに集まるかもめととんびの群れに餌をやることに夢中なのだ(右写真)。舟屋集落が好きで、舟屋集落を見に来た私にとっては、非常に残念な光景であった。乗船客の中に外国人の観光客の方がいたのだが、皆が鳥にえさをあげて喜びはしゃぎ、舟屋に興味も示していない様子に唖然としていた。後でまちを歩いていると神社でその外国人の観光客に会ったことを考えると、彼らは多分私たちと同じく舟屋集落を純粋に見学し、その歴史的な佇まいや日本の伝統的集落の景観・空間を楽しみにきたのであろう。

伊根湾を巡る観光船は何のためにあるのだろう。観光船の中にも餌の駄菓子が売られていた。鳥に餌をやり、鳥と戯れるためのものなのだろうか。鳥と戯れることが悪いとは思わない。しかし、落ち着いて集落を見ることすらできない。少なくとも、このような観光客と風景を楽しみに来た観光客の船を分る必要があるのかもしれない。

インドネシアブログ第8回(最終回)。

今回の研修中にイメージハンティングという簡単な調査を行った。イメハンルート

その大まかな内容は、研修参加者11人とガジャマダ大学学生が一緒に、同じルート(右図)を歩きながら、インドネシアらしいと感じる空間の写真を撮影していくもの。そして後日、撮影した写真の中から、最もインドネシアらしさを感じた写真を各自5枚程度選出しコメント(インドネシアらしいと感じるものの説明、200字程度)を付けていくというもの。現在の作業はここまでであるが、今後は、参加者が選出した合計55枚の写真から、類似したものなどを省いて40~50枚程度に絞り、皆で話し合いながら各写真に対するコメント(写真に写った場面の説明、200字程度)を完成させ、そのコメントに出てくる名詞、形容詞の分析を行うことにより、インドネシアらしさを作り出すイメージや空間要素などを明らかにしていこうというものである。

この調査において、私が選出した写真と、どこがインドネシアらしいと感じたかのコメントを以下に示し、今回のインドネシアブログの締めくくりとしたい。

イメハン1

低層の建物群であるため、建物よりも樹木の方が高くそびえている。橙色から茶褐色の色彩の屋根は、自然の素材からつくられているため、人工物であるにも関わらず自然的である。

イメハン2

②日差しが強いため、路地裏には簡易のテントが所々に 張られ、日陰が作られる。使われていないグロバやバイクが点々と置かれ、道はモノ置き場ともなっている。しかし、はみ出しすぎておらず、歩行空間は確保されている。

イメハン3


③東南アジアの気候が木々を大きく成長させる。ベンチと街路樹がセットで設けられ 、その木陰では多くの人が休んでいる。昼間からベンチに横になる人もおり、のど かな感じ がする。街路樹は、人々に木陰を提供するという重要な役割を果たしている。
イメハン4


④洗濯物はどこにでも干されている。昼間のグロバは物干し台、フェンスは物干し竿の役割を果たしている。単 一機能としてではなく、様々な可能性が考えられて利用されており生活感がある。干されている衣類には日本と大きな差はない。

イメハン5

⑤看板の後ろは橙色・茶褐色の屋根が連なっているはずである。看板脇からわ ずかに覗く橙色から茶 褐色の屋根が歴史を感じさせる。マリオボロ通りの特徴は屋根瓦ではなく、看板になっている。日本の繁華街と同じで、商売のために使えるところは全て使おうという意識が見られる。

インドネシアブログ第7回。

今回はインドネシア、ジョグジャカルタ近郊で見られた植物について。

インドネシア研修期間中、様々な花や実を目にすることができた。それらの中には、誰に植えられたともなく、ひっそりと、しかし色鮮やかに咲いている花も多い。それらの花は、集落景観や街路景観のアクセント、文字通り「花(華)」となっていた。

植物の種類には詳しくないので説明はできないが、それらの一部を以下に示す。

植物9  植物8  植物7  植物2

植物4  植物3  植物5  植物6

花とは、動物のように自由に動くことのできない植物が、自分の子孫を残すためのひとつの器官である。植物にとってはこのような機能をもつ。一方、人間は花を、見、嗅ぎ、造形の対象としたりする。また、その他にも、石川啄木「人がみな 我より偉く 見える日ぞ 花を買い来て 妻とたわむる」の歌にも表れているように、心のなぐさみとして花を見、また神仏や人間を超えたものと人間とを媒介するものとしても花は使用される(花の万博国際シンポジウム企画委員会「花とひと」より)。大橋力氏は同書「花とひと」の中で、花を見ることの大切さ、花に快感を感じなくなることへの危険性を適応症候群という医学的・心理学的視点から示している。

私自身も、日本ではあまり花を見て感動するということはなかった気がする。桜など花見の対象となる花はよく見るし写真を撮りたいという衝動に駆られるのは確かである。しかし、道端に咲く花を見て写真を撮りたいと思うことはごく稀である。このように、注目される花とそうでない花という「花のヒエラルキー」のようなものが各自で、また世間一般としてつくり上げられていることも関係していると思う。これは、現存する歴史的な集落・まちについての状況と同様である。歴史的な集落でも、伝統的建造物群保存地区や景観形成地区などに指定され、歴史的な環境・空間の整備が進められている集落もあれば、全く見過ごされているような集落もあるというようなヒエラルキーが存在している。

花と集落を同じように考えるのは危険であると思われるかもしれない。しかし、前述した大橋氏の指摘にもあるように、花に快感を感じなること、花を見なくなることは、人間にとって非常に危険であり、人間の生存・存続の上で重要だということを考えると、人間が居住する集落環境と同様であるとも考えることができるのではないだろうか。また、平成15年に大阪府立健康科学センターの大平哲也氏が、古い町並みの散策がストレス解消、癒しに効果を発揮することを唾液中のストレスホルモンの一つコレチゾール値の測定から明らかにしたことは、花と歴史的集落の同質性を表すものであるとも言える。

注目されている花と注目されていない花は本質的には大きな差はない。仮に美しさに差があるとしても、それは人間の主観により判断されただけであり、他の視点から見ると非常に魅力的なものであるはずであるし(例えば昆虫の視点から見ると違うはずであるし、昆虫の種類によっても違うはずである)、その個体にとっては非常に重要な役割を果たすものなのである。見過ごされている集落にも同様のことが言える。歴史的整備が進められている集落と見過ごされている集落は、本質的には変わりはなく、何らかの判断基準、評価基準(花であると人間の主観のようなもの)から見て方向性が分かれてしまっているだけなのである。しかし、その環境は、これまでと異なる判断基準・評価基準から見ると非常に高く評価できる可能性もあるし、その集落の存続、日本の本質的な集落環境の存続にとって重要なものだと言える。このような視点から見ると、現在見過ごされているような集落における価値を、これまでとは異なる価値基準から再評価していく必要があると言える。

新たな価値基準を考えていく上でのひとつの手がかりとなるのは、外部からの評価、外者的な視点である。これまでの歴史的町並み保存の多くも、そのきっかけは外部からの評価であった。しかし、それとは異なる視点からの外部評価をしていく必要があるのだと思う。その一つの方法として、上記で示したような道端の花への着目(インドネシアの人は元々一般的に道端の花を愛でているかもしれないが)もそうであるが、外国人の視点から見てもらう必要もあるのかもしれない。もしかすると、外国人は歴史的な整備がされたような町よりも、見過ごされている集落(道端の花)の方に、より日本らしさや魅力を感じるかもしれない。

インドネシアブログ第6回。

今回はまちなかのポールについて。

インドネシア、ジョグジャカルタのまちなかには旗を掲げるためのポールや、ポールをさし込むための土台が多く見られる。普通は歩道と車道の境界部(歩道上)に、マリオボロ通りではベチャ道と車道の間及び駐輪スペースと車道の間の分離帯部分に設置されている。

ガジャマダ大学の友人の話によると、旗の掲げ方には2通りあるそうだ。

1つめは、ポールの一番上に旗を掲げる場合である。独立記念日など国民の休日に、このような方法で旗が掲げられる。日本で祝日に国旗を掲げる(最近はあまり見られなくなっているが)と類似している。

2つめは、ポールの真ん中(中段)くらいに旗を掲げる場合である。これは津波がきた次の日や重要な人物が亡くなった時には、このような方法で旗が掲げられる。

それらのポールは全て、5つで1セットになっている。5つのポール(national symbol)にはそれぞれ

①relationship with God

②relationship with man

③unity

④humanity

⑤fareness

という意味があるという。

ポールを支える土台部分は場所によって装飾が異なり、単なるコンクリートブロックのものから、形を変えて色が塗られているものまで様々である。マリオボロ通りではデザインが統一されているが、その他の場所は決まったデザインがない。

常時歩道上に置かれていることを考えると、行政が設置し管理しているのではないかと予想される。そう考えると、このデザインの違いはどのように生じてくるのだろうか。設置を請け負う業者によってことなっているのか、周辺住民が手を加えるのか、上記のような行政による設置・管理ではなく住民が勝手に置いているものなのか、などなどその他にも色々考えられる。一番有力なのは、一番左の写真に「RT.13」という文字が見られるように、各RTが1セットないし数セットを所有し、デザインを決めて通りに出しているというものである。しかし、想像の域を脱することはできないのでこの辺りで・・・。

ポール3  ポール4  ポール1  ポール2

インドネシアブログ第5回。

今回のテーマは路面状況とヤン車。

インドネシア、ジョグジャカルタの路面舗装は、予想していたよりもコンクリートブロックによるインタロッキング舗装が多い。細い路地でもインタロッキング舗装になっているところも多い。未舗装の道路も見られるが、比較的舗装割合は高いという印象を受けた。しかし、メンテナンスが行き届いておらず、アスファルト舗装部分にも轍が多く、石も多く転がっている。インタロッキングブロックが浮いたり、割れたり、欠けている部分なども多く見られた。このような路面状況は、車両通行によるものが多いのは確かである。しかし、インドネシアの道路は至る所に車両速度減速のための段差が設けられているおり、それがブロックが浮かせてしまう原因のひとつにもなっている。また、樹木も大きく育つため、木の根がブロックを押し上げるところもある。

一方、インタロッキングブロックの間から雑草が顔を出しているところも多く、インドネシアの気候・風土を感じることができる。手入れの仕方次第では、インドネシアらしい街路空間の特徴的な要素となるのかもしれない。インドネシア、ジョグジャカルタの舗装状況は以下の通りである。

舗装1  舗装2  舗装3  舗装4

歩道上には、文字(アート?)の描かれているところもある。また、近年の日本ではなかなかみかけることのできないものもころがっている。

文字  (右写真は18禁)ねずみ  うんこ  かえる

最後に、前述したように、路面には多くの減速用の段差がある。にもかかわらず、日本と同様、車高を下げたヤン車もある。下の写真の車は、いずれもジョグジャカルタ郊外の新規住宅開発地に停められていた車である。後のブログで取り上げるが、ジョグジャカルタ郊外には多くの新規住宅地が開発されてきている。それらは、敷地規模などに差はあるが、いずれも比較的裕福な世帯が多く暮らしている地域と言える。お金に余裕がないが、車の改造が好きだからという人もいるかもしれない。しかし、普通に考えると、このような地域の住民は趣味的なものにお金を費やせるだけの経済的なゆとりがあると考えてもよいかと思う。

ヤンシャ1  ヤンシャ2

インドネシアブログ第4回。

今回は文化の違いの一側面について。

インドネシアのタバコはとても強い。タールの量が半端ではない。日本では、タール1mgのものも多く発売さ れており、平均10mg前後なのではないかと思う。インドネシアでは、1mgのタバコ は見かけられない。そたばこ の多くは10mg以上。今回の研修でお世話になったガジャマダ大学の学生の吸っているタバコを見せてもらうと、なんとタール39mg(右写真)。その学生さんの話によると、インドネシアでは何歳からでもタバコを吸っ ても良いそうだ。もし、赤ちゃんが吸いたいと言ったら吸っても良いという。しかし、ジョグジャカルタ、マリオボロ通り北西のサークルKの入り口を見ると、「タバコは18歳以上」と書いてあった。これは、外資のコンビニだからこのように書いているのか、法律があるのかどうかわからない。しかし、効率があったとしても浸透していないようだ。

日本は成人男性の喫煙率が約5割と先進国の中では喫煙率が非常に高く、喫煙大国とも形容されるほどである。そのような中で、昨年(平成16年)健康増進法が施行され、分煙が進み、喫煙者は形見の狭い思いたばこ2 をしている。しかし、学生さんの話によると、インドネシアでは、どこでタバコを吸っても良いそうだ。しかし、最近、エアコンが普及してきて、エアコンのかかっている部屋の中ではタバコを吸ってはいけないというところも増えてきているという。しかし、日本とは大きな違いである。また、どこで吸っても良いということに関係しているのかもしれないが、食事が終わったお皿を灰皿代わりにしても良いということも聞いた(右写真)。そういえば、店員に「ashtray」と言っても通じなかった。これは発音の問題なのか、文化の問題なのか・・・。

夕食会に来ていたインドネシア人の高校生?が言っていたのだが、インドネシアで は自動車やバイクの排 気ガスが人間の肺に悪いということが問題となっているそうだ。このように、今後、インドネシアでも健康に対 たばこ3 する関心が高まり、喫煙に対する措置も出てくると予想される。そのことは、人間の体にとって非常に良いこ とであるし、進めていく必要があることであると思う。

その場合、仕方ないことではあるが、右写真のような風景は徐々に消えていってしまうのかもしれない。(右写真はボロブドゥール付近の集落の周辺。タバコ畑が広がり、道端にはタバコが天日干にされている。また、道の向こうからは、頭の上にタバコの葉っぱを大量にのせて運んでいる人が、集落の方に歩いてきている風景である。)

インドネシアブログ第3回。

コタグテはジョグジャカルタ南東約5~6kmに位置する。インドネシアの代表的な手工芸品のひとつ銀細工の製造の中心集落である。スケジュールの都合上、あまり時間がなかったため、集落自体を広く回れなかったためかもしれないが、「Silver」と書かれた看板が多い以外は銀細工の集落という感じを受けなかった。複雑な細い路地網をもつ落ち着いた集落である。

コタグテに限らず、インドネシア・ジョグジャカルタの都市・集落空間には日本との共通点が多く見られた(これはアジア都市の共通点になるのかもしれないが)。今回の研究のテーマは「アジアの中のインドネシア」で、インドネシアの地でアジアらしい都市、都市計画とは何かを考えるというものであった。その中には、道や建物、植物など、それぞれで共通点や相違点がある。また、その背景にある生活文化や気候なども考える必要がある。今回の研修の成果としてそのような考察をしていければ良いと思うが、ここでは、コタグテで目にとまった、いくつかの日本と共通の建築要素(アジア的な要素と言う方が正しいかもしれないが)を挙げてみる。(その他にも共通要素があるのは当然だが、特に目に付いたものだけ)

1つ目は格子窓である。日本では、格子の長さや太さをリズミカルに変えたりして、線材としての面白さが見られるが、ここでは、意匠の繊細さや工夫はあまり見られず単調なものが多かった。

2つ目は、家の前の石製ベンチ。壁面に備え付けてある点は、日本の伝統的な「ばったりしょうぎ」に似ている(収納することはできないが)。家の前のミチも自分の生活空間の一部として使用するという、公私境界の不明瞭性がインドネシアでも見られる。

3つ目は、肘木、斗である。これは、木造建築なら珍しいものではなく、またその形状(様式)は日本とは異なっているため、特に日本と似ているという訳ではない。しかし、日本でも雲などのように、建物のこの部分に美しい装飾を施しており、この背景には何らかの共通点がありそうである。

4つ目は、おまけ。このような植栽が沢山あるわけではなく、たまたまここで見かけただけであるが、日本の酒造にある杉玉に似ている。ここは酒造でもなく、これには特に背景があるわけではなく、たまたま。

コタグテ4  コタグテ6  コタグテ2  コタグテ5

最後に、今回のブログのテーマとも関係する日本とインドネシアとの関係について概観しておく。

日本とインドネシアの関係は長い歴史を有する。今日の関係は、第二次世界大戦前のスカルノ等民族主義者と一部日本人が接触していたことに始まる。その後、1942年、日本軍が上陸し、日本軍政が布かれ、郷土防衛義勇軍や隣組などその後のインドネシアに大きな影響を与えている。1945年に第二次大戦が終戦したが、インドネシアはオランダとの独立戦争に入り、その際一部の元日本軍兵士も参加している。しかし、第二j次大戦終戦以降、両国関係は希薄となり、1955年時点の在留日本人は20人以下とも言われている。1958年に両国間の平和条約と賠償協定が締結され、13年ぶりに国交が正常化し両国関係は新たな展開を見せている。国内開発プロジェクトも進み、民間ベースの経済交流も活発化し、日本企業のインドネシア進出も増加し、在留日本人数も急増。その後マラリ事件のような対日暴動も生じたが、阪神大震災の復興支援など友好関係をさらに緊密化している状況である。

上記で示した、隣組・字常会制度は現在もインドネシア社会の中に定着している。インドネシア独立後、隣RTRW 組・字常会はRT(RukunTetangga)・RK(Rukun Kampung)へと改組されている。その後、RT・RKは急激な人口の都市化によって肥大化しつつあった都市行政と都市住民の架橋を目的として「ジャカルタ首都特 別区RT・RW RT・RW要綱に関するジャカルタ首都特別区州知事決定令第Ⅰb.3/2/14/1966号」によってジャカルタで初めてRT・RW(Rukun Warga)として法制化された。その後、1983年には「RT及びRW設置に関する1983年内務大臣規定7号」によってインドネシア全国でもRT・RWが設置され現在に至っている。 RT・RWは、法制的には一貫してインドネシアのRT 地方行政システム上の正式な単位ではないと位置づけら れてきたが、実際には家族カード(Kartu Keliarga)や国民証 (KTP)の 発給補助業務から、夜警、清掃、祭礼、葬儀等を行う包括的な役割を担う住民組織となっている(東南アジア史学会第62回研究大会、小林和夫「隣組・字常会の歴史的展開-ジャカルタにおける1966年のRT・RW法制化を中心に-」より)。右写真上は、RTの門とその入り口に設置されている夜警のための小屋である。 昼間は食事や休憩、カード遊びなどの場として利用されている。 右写真下は路面上のRT標示。

インドネシアブログ第2回。

今回はボロブドゥール近郊の2集落について。

やはり郊外集落は都市内のカンプン地区とは違い、自然的な要素がたくさんある。石組みの高さも道の形状も、全てがヒューマンスケールの空間である。また、地場の材料と様式で作られているため調和している。揃った屋根の形状、路上や建物のまわりに散らかっている木材、水路とその上に架かる木製の橋、石組みなどなど。そのために、逆に、植栽の上に干してある洗濯物や、たまに見かけるキオスクのような店舗が景観のアクセントになっているようにも感じた。

2つの集落にはそれぞれ主要産業(特産物)がある。ひとつはヌードル、もうひとつは陶器である。

以下、それぞれの集落の特徴について簡単に記す。

①ヌードルの集落

この集落の特産物であるヌードルとは木の繊維から作られる麺である。

麺の作り方は、木の名前は忘れましたが、木を切り出してきて、半分に割る。そして、その中にあるやわらかい部分を削いで、水に浸しておく。繊維がどろどろに分かれたら、水を濾す。2度ほど水を濾して澱粉質の部分が沈殿するので、それを天日で乾かしてヌードルの粉にする。残った繊維は数回使用できるが、少し茶色がかったものになるという(白い方が高く売れる)。白い粉をなべに入れて水で煮る。どろどろの液体状のものができるので、それを「こしき」にかけて麺の形にする。それを天日で干して麺の完成。

このように、ヌードルを作る工程では、水が非常に重要であり、どの集落でも水は重要な要素として考えられているが、この集落は特に水を大切にしている。ほとんどの道がアスファルト舗装であるが、アスファルトの上に、ヌードル生産の副産物として出てくる木の繊維の屑が敷かれており、それもこの集落の景観を特徴付けるものとなっていた。この屑は燃料にもなるという。

2つ目と4つ目の写真のように、建物の周りには集めてきた木材などの建築材料が大量に置かれている光景を目にする。インドネシアでは伝統的に「住宅の段階的建設」が行われており、「自己資金にインフォーマルな貯金機構(アリサン=講)を通じて集めた資金、及び、建築材料等の形で備蓄したものが一定量に達すると、部分的な工事を実施するという生産形態が一般的であり、日本や欧米におけるように、貯蓄・融資などにより一挙に最終的な住宅を完成させる懈怠は一般的ではない」という小林英之氏の指摘されていることが、現在も郊外の集落においても見られた。しかし、現在はインドネシアでもディベロッパーによる郊外開発が進められてきている。そのことについてはまた次回ふれることにする。

ボロブドゥール周辺集落1-1  ボロブドゥール周辺集落1-2  ボロブドゥール周辺集落1-3  ボロブドゥール周辺集落1-4  

②陶器の集落

集落内の空地の土を使用して陶器がつくられているため、集落内には多くの穴が空いている。また、つくられた陶器や失敗作の陶器なども至る所に置かれている。①のヌードルの集落でもそうであったように、その集落の産業が集落景観を特徴付けているという感じがした。

この集落では、集落内のオープンスペースというものを改めて考えさせられた気がする。計画的にミチが作られた西欧都市とは異なる、建物の残余空間、隙間空間がミチになるというアジア的なもの?である。これは日本の集落も類似しているが、現在の多くの日本の集落では、土地所有の問題などで敷地境界が明確化され、塀が建てられたりし、ここまで純粋に残余空間=オープンスペース=公共・共用空間という構図を残す集落は少なくなっていると思う。集落の中の主要なミチは幅1m程度のインタロッキング舗装がされている。しかし、その両脇を含め、その他の場所は未舗装であり、建物と建物、建物と自然による残余・隙間空間がミチや広場として自然な形状を有している。4つ目の写真は地形により規定されて作られたミチの形状であると言える。2つ目の写真の広場は、3件の住宅が囲むことで作り出されたオープンスペースであるが、陶器が置かれ、作業の場所としても使われ、また住民の憩いの場としても使われている。広場を囲む3件(血縁か非血縁かは不明)の共用スペースとしての役割を果たしている。

ボロブドゥール周辺集落2-1  ボロブドゥール周辺集落2-3  ボロブドゥール周辺集落2-4  ボロブドゥール周辺集落2-5

ヌードルの集落は、そこで造っているヌードル?(何か忘れましたが・・・)と同じものが、ボロブドゥールから発見されたという関係をもっている。そのようなことも含め、観光客に、ボロブドゥールだけでなく周辺集落まで見てもらおうという、ボロブドゥールと合わせた観光化も検討されているという。

世界遺産周辺の集落や地域をいかに考えていくかは非常に重要なことであると思う。上記の2集落についても様々な方向性を検討していく必要があると思う。その検討の結果、「観光化を」ということになっているのだろうが、観光化にも色々な方法があると思う。昔から受け継がれている地域の産業や生活こそが、これらの集落を魅力的にしているのであって、そこに観光を入れ込むかは非常に難しいことであると思う。ベトナムでは、ハロン湾が世界遺産に登録されると、すぐにリゾート開発が始まり、埋め立てが進み、地域住民がその開発で受ける恩恵はせいぜいホテルで雇われるくらいだということも言われている。観光を入れることによって、集落の魅力が失われていくようなことにならないような仕組みをしっかりと考えていく必要があると思う。