中田裕康『債権総論[新版]』(岩波書店、2011年)


「初版はしがき」より(ⅶ頁)


「債権総論は、むずかしいといわれる。たしかに、『債権』という権利について、その内容や効力などを検討するという抽象的な議論は、日常生活とは距離があり、もともと、わかりにくい。学説のむずかしさもある。かつては、我妻栄『新版債権総論』に代表される通説があったが、その後の学説は、通説を批判し、その前提を問い直すことによって発展した。それは進展ではあったが、ともすれば、議論が多層的かつ精緻な、つまり複雑なものとなり、また、ときとして、その内容が独自の概念に凝縮されることもある。その結果、その成果が研究者の狭い社会の中でしか共有されていない状況に陥っているのかもしれない。さらに、多数の判例と特別法の出現、高度な実務の発達、国際的な動向の影響など、情報量が著しく増加し、その吸収がたいへんだということもある。このような事態のもとで、学生のなかには、さらには法曹界においてさえ、近年の学説の展開に関心をもたない人々が見られなくもない。


 しかし、他方、裁判の場はもとより、先端的な取引実務の場においても、新たな問題の解決や新しいシステムの構築にあたって、債権総論にかかわる理論的検討が求められることは、決して稀ではない。そして、なによりも、民法(債権法)の改正が予定されている現在、それを正面から取り組み、よりよい民法の構築に向けて力を出し合うためには、この領域における実定法(制定法・判例)と学説の現況を把握することが必要となる。そうだとすれば、むずかしいといわれる債権総論を少しでも平明に伝えることは、大学でこの分野を研究する機会を与えられている者の責務であろう。優れた体系書・教科書が多くあるなか、筆者かその驥尾に付したいと考えたのは、このような気持ちからである」




中田先生らしい「はしがき」だなと思いました。そして中田先生の本を実際に読んだ人であれば理解できると思うのですが、「平明に伝える」というはしがきでの言葉が、本の中でしっかり実現されています。従来の議論、判例を正確に紹介し、また、水準を落とさず平明に伝えようとしていることが、読んでいて理解できます。その意味で私は、債権総論のテキストの中で、中田先生のを推薦します(より基本的な本としては、渡辺達徳・野澤正充『NOMIKA債権総論』(弘文堂、2007年)を推薦します)。




中田先生は、「精緻な議論を展開すると、学生や実務家がついてこないジレンマ」を的確に指摘しています。私もよく感じるのですが、「有力説」というのは、議論が精緻だなあと思うのですが、理解が難しい、という印象を受けます。参照がほとんどできない極めて厳しい環境の下で、答案という形で表現を強いられる司法試験受験生が、精緻な見解であるが書きにくい説よりも、書きやすい説に流れるのは、自然なことだと思います。「それはけしからん」というのは簡単ですが、試験に合格することで結果を出さなければならないプレッシャーを受けている学生・受験生のに、そのようなことを言うのは酷ではないかと思います。特に、判例が昔に比べて莫大に増え、学説が百家争鳴となっており、それを的確に整理するのは、時代と共に難しくなっているわけです。現に教科書は時の流れと共に、厚くなっています。




なお、「少数(有力)説で書いても、採点では影響がない」と言われ、これはその通りだと思うのですが、実はこの前提には、「少数(有力)説を、正しく説明していること」という前提が付け加わるのだと思います。しかし、「少数(有力)説を、正しく説明すること」が、実は難しいことが多いのです。仮に少数説を採った受験生が悪い点数をとったのであれば、それはその説をとったからと言うよりも、その説を正しく説明できなかったから、という可能性が高いように思われます。また、ときたま論文の中で、「自説を批判する○○教授は、自説を誤解している」というものが見られますが、これは誤解している方が悪いのか、誤解されるような説明をしている方が悪いのか、分からなくなることもあります。




なお、議論が精緻すぎて、学生や実務家が付いてこれない具体的な一例として、思い浮かぶのは、不当利得の類型論ではないかなと思います。不当利得の類型論は日本を代表する民法研究者が、精緻な議論を展開しているのですが、その内容が精緻しすぎて、学界の外では、もしかしたら学界の中ですら、共有されていないのではないか、という感を受けています。