石原吉郎「自転車にのるクラリモンド」「葬式列車」
中原中也「一つのメルヘン」
黒田喜夫「毒虫飼育」、季村敏夫「祝福」
草野理恵子「牛乳の薄皮」
マーサ・ナカムラ「電車のとまる、きつねの停車場」
寺山修司「思い出すために」、清水哲男「冒険ターザン」
津村信夫「小扇」「落葉松」

 参加者それぞれが自分の「推し」の詩について語り、それについて少しみんなでコメントするという形。7人が11編を語って3時間があっという間だったので、詩について語るって時間を忘れるなと思った次第。

 1936年の「一つのメルヘン」から、2022年の「電車のとまる、きつねの停車場」まで、昭和以降の詩を縦断する形で、多くの詩について語り合うことができた。
 一つのテーマとして、作家論的読解と作品論的読解の双方があり、どちらを重視すべきか、どちらのほうが作品鑑賞としての面白みがあるかといった議論があったように思う。詩人自身の仕事や育児体験における「障害」との関わりを読詩に反映させるべきかどうかというのが端緒で、反映させることで面白くなくなってしまうという率直な感想があり、つまりはそれが正解のようになってしまい、作品の多様性・多義性が削がれることになるのではないかという議論であった。
 一方で石原のシベリア体験、黒田の共産党や罹病の体験など、詩人の体験・人生を知ることで作品読解に深みが増すことは、当然のことでもある。この議論を契機に、当該作品を言語の身体性、定型への指向(章の末尾に短歌形式の一行を入れること)、存在の多様性への希望を示すことの美しさ、といった様々な読みができることが提示され、豊かな読後となったことは喜ばしい。
 また、あくまで美しく客観的な言葉を紡いだ津村、相互に矛盾するイメージをみごとに止揚する形で完成度の高い作品を提出した中原の二人が1940年代に病没していることから、前回の読書会でふれた三好達治や高村光太郎の戦時対応と比べる議論も興味深かった。もし彼らが戦時中に戦争協力詩を求められたら、歴史を風景として賛美するようなことをしただろうか、というような議論である。
 高校教諭が2人いたことから、詩の授業で押さえなければいけないこととして、言語化できることとできないこと、わからないことをそのまま尊重することで離れていく生徒とそうでない生徒がいること、解説書(指導書)等の限界、といった話題も交わされ、興味深かった。

 石原の「クラリモンド」について、人名だと思われるが男性か女性かどう思う、といった問いが出され、飄々とした男性だろうかなどと言っていると、ゴーチェの小説『死霊の恋』に吸血鬼として出てくる女性の名に同じものがあるという話になり、はたしてそれを石原は知っていたのだろうか。
 作品を取り上げた季村敏夫氏が突然参加されて、作品に係る貴重なお話を伺えたことは、個人的にも大きな収穫であった。
 あっという間の3時間だったが、終了後も懇親会で3時間以上、時がたつのも忘れ、短詩形文学のジャンル論、現代詩という「絶滅危惧種」をいかにすれば生き延びさせうるかといった話題に花が咲いた。実作者が多かったこともあり、今後の創作の方向等についても熱い議論があったようで、今後に何か繋がりそうに思われた。

 

写真は「毒虫飼育」が収められた黒田喜夫詩集『不安と遊撃』。