私は、本を読むのがなかなか好きなのですが、その中でもとりわけ小説を偏愛していて、見ず知らずの人の生活を覗き見しているような気恥ずかしさと後ろめたさと相手を理解しようとする気持ちが私の中で渦巻き止められなくします。それはもう始まったら止まらない好奇心で、その制御は睡眠欲のみ可能で、読みながら眠りまた起きて続きから読むをベッドの中で繰り返すことが、わたしの習慣で、暇つぶしの読書はあまり得意ではないです。
先日、哲学の授業で作家 平野啓一郎氏について知り、興味をそそられ帰り道に購入をしました。その授業では個人/分人についての理解応用、そして実態を感じることを、重点に置いておりました。
物語の中では現実世界と、何かの表紙で繋がってしまいそうな仮想現実といいますか、このような出来事がもし本当にあったとて全く不自然では無くむしろ怖いくらいに現実に溶け込んでいる、エッセイとか、否むしろ自己の精神的な面への追求をしたなにかしらのルポルタージュかのようでした。
優秀な兄、それに憧れと嫉妬と焦燥を感じる弟。
実直な弟、それに尊敬と愛そして理解を求める兄。
お互いに確かに愛があって、それを認めているのに、こじれてしまうのはお互いがお互いに自分の理想の相手というものがあり、とくに弟においては理想の兄/そしてその自慢の兄と心を通い合わせており、兄のことを誰にも劣らず自分こそがよく見知りうる、否自分こそがその正体を内面を、ほんとうの姿をその苦悩や悲しみを心で感じ取っているのだという自負や自分との共通事項を持ちたい、共通認識としての本当の自分を自分にさらけ出して欲しい、だって、唯一無二のこの世にたった一組のオリジナルな兄弟なのだから。
兄は言いました。叫んでいたのかもしれません、”あいつは死んではいけなかった” ”おれは殺していない” それは、兄弟だから?違う、それは、お互いがお互いに持っている天性の自己に、他人への自分の見せ方とか接し方だとか、自分にないものを持っていてそしてそれを感じあっていて、兄はそんな弟の実直さ不器用さ、その脆弱さを尊いものみたいに扱っていて、分人としての多数の人に合わせたその人専用のオーダーメイドの自分を認めたからこそのそれをしてしまう自分への諦めが感じられ、一方弟は器用に立ち回ることができる兄に自分と同じ部分を認めさせる、オリジナルのたった一つの個人が軸となり様々な姿に化けて人と接している、でもそのオリジナルは自分と同じようなつくりをしていいて、本当の兄は実に自分と近いものであって欲しいというちょっとした願望?が、ある。自分が、自己を統一しようとしてでもそれが上手くいかない、なぜか、自分がきちんと自分を見せているつもりなのに相手にその様子が見られないから、むしろ心を隠され、そこで自分のその姿をあざ笑われているのではないかって、自分の汚い部分とか、恥ずかしい部分とか、本当はみんな作り笑いで自分を囲んでいるのでないかって怯えに似た、こころを萎縮させてしまうようなちょっとした決めつけを背負ってしまっていて。そしてその対象は兄も例外でなく、いつも兄に正体を、本当の姿を、内面を自分に表してくれと半ば懇願にも見えるような、歪んだものを兄にぶつけているように見えました。
そんなふたりを、取り囲むこの流され易い世界が、原因を決してひとつにさせてくれなくて、今だからこの現代だから起こってしまった決壊は文字を通して私に危惧を感じさせました。今私に必要なことは流されないこととか自分の意見を持つとかじゃなくて、悲観しちゃいけない、受け止めなくちゃいけない、そして、すべてはひとつだけじゃない。とか?かな?
なのかな?私はあまり頭が良くないのでこれくらいの言葉しか見つけられないのですが、きっともっとふさわしい言葉があるはずです。頭後悪くて恥ずかしいです。
