――ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。―― 『創世記』32ー25(新改訳)

 

 

 

 

昨日の大宮混声の練習のとき、やってしまった・・・・。時限爆弾と化しているギックリ腰である。立てないのではないかと思ったほどの痛みだったが、何とか立ち上がり、練習も最後までやって、文字通りの老いぼれ老人の情けない格好で家までたどり着いた。

 

 

クリスマスだというのに、これで今年いっぱいはチンパンジーの姿勢で過ごさなくてはならなくなったではないか。

 

 

 

腰の痛みで連想するのが、冒頭の聖書『創世記』からの引用部分である。(年に一度ぐらいは聖書でも読むかWW)。

 

 

 

―――族長ヤコブは兄エサウと和解するために、家族・従者・財産の牛や羊等とともにヤボク川の渡しを渡った。そのときのエピソードがこれである。

 

 

ヤコブが闘ったのは神の使い・・・・というよりも人の姿をとった神そのものであった。新約的な文脈からすればイエス・キリストなのであろうが、そこまで踏み込んだ解釈をしなくてよいように私は思う。

 

 

とにかく神は、ヤコブを一生にわたる障害者にしてしまった。ヤコブはそんな代償を払っても、それを神の恩寵と受け取ったであろう。

 

 

なぜか?

 

 

思い上がりと突っ走りの性格を諫めてもらえたからである。この事件がなかったならば、もしかして兄エサウの率いる一団と戦闘状態に入ってしまったかも知れない。

 

 

ヤコブは、自力にばかり頼ることをやめて、運命を神に委ねることを覚った。無私無欲の姿勢は顔にも物腰にも現れるものだ。意外にもエサウがヤコブを温かく迎え、祝福を与えたのはその所為でもあったであろう。

 

 

 

それで、私の場合、話がみみっちすぎるけれども、ギックリ腰は神の恩寵であったのかという疑問が湧くが、まともなキリスト者なら恐らくそう考えることは間違いない。そしてこのやさぐれクリスチャンでしかない私も、その考えを否定することはできないのである。

 

 

出来事の「意味」を問題にする限り、人は合理主義だけでは説明することは不可能である。自分がこの世に生まれた「意味」そのものが、ある不合理な決断を抜きにしては知られることがないからである。

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

聖夜、こんな讃美歌に涙をにじませる自分がいます。

 

 

 

メリークリスマス!