私は、夢の中以外では不思議な体験をしたことがない。あまりに日常が合理的で平々凡々たるものだから、自分はつまらねえ人間だなあと思うことがある。

 

 

小学5年のときだったか、幽霊がいるのかどうか確かめてみようとした。夕暮れ時、家の近くの墓場に佇み、1時間も「幽霊よ、いるなら出てこい!」と念じた。

 

 

当時は半田舎だったから日が落ちれば人通りはほとんどない。正直、びくびくどきどきものだったが、これをやり遂せなくては男の子じゃないと痩せ我慢で乗り切った。

 

 

結局、幽霊やそれに類するものは一切現れなかった。私は、その経験ひとつを根拠に、「幽霊はいない」と結論づけた。

 

 

 

しかし、不思議体験を否定するような資質は、一方で芸術的なセンスの無さにつながっているように思う。

 

 

私は、音楽が最も苦手な科目だったし、多少はマシな美術でも、得意なのは写生ばかりで、想像力を要するような絵は描けなかった。文章だって創作なんてジャンルは端から放棄していた。

 

 

得意な科目といえば数学や理科方面で、こちらは合理的に考えて行けば必ず「正解」に辿り着けるのでおもしろかった。

 

 

そんな私に、思春期あたりから芸術コンプレックスが生じた。その大元になったのは不思議コンプレックスである。それで、何でも合理的に割り切るのはクソおもしろくもないと思うようになった。だから、芸術的な感受性を持っていたり、不思議体験を語ることのできる人間に対しては非常に興味を惹かれた。

 

 

 

ところで、また愛美さんがブログで、私のコンプレックスを刺激するようなことを書いたので、リブログせざるを得なくなってしまったではないか!

 

 

 

愛美さんのすごい体験談をコピペさせていただく。

 

 

 

当時団地の二階に住んでいて、オンボロ団地だったので雨戸すらなく

 

カーテンを開ければ、すぐ外が見える。

 

深夜の外の、コンクリートの道路に

 

上半身だけ出てるおじさんが溺れていた。

 

そのコンクリートの道路は、おじさんの周りだけ、液状のように波を打っていた。

 

そのおじさんは、「助けてくれ~助けてくれ~」と言い続けながら溺れている。

 

4歳の私は、何が起きてるのかわからなかった。

 

 

 

私「お母さん、あそこでおじさん溺れてるよ」

 

母親「え?どこ?」

 

私「ほら、あそこ!」

 

 

 

 

母親が外を見ても、私より霊感があるというのに、そのおじさんは視えなかったらしい。

 

 

 

私「助けてーってずっと言ってるよ。お母さん助ける?」

 

母親「……愛美、寝るよ!」

 

私「なんで?あのおじさんは?」

 

母親「大丈夫だから!寝るよ!!」

 

 

母親に無理やり布団に入れられた。

 

その時は、母親のほうが怖かったらしい(笑)

 

私は「なんで助けてって言ってるのに助けないんだろう」と、母親のことを少し冷たい人間だなと感じていた。

 

 

 

この体験話が事実なのかどうかは二の次の問題・・・・というか、どうでもよい問題である。幽霊の存在が信じられているに社会においては幽霊は存在するのであり、その理屈は個人にあっても同じことであるからだ。

 

 

要は不思議を見ることのできる感受性・資質が、誤認はあるかも知れないが、当たり前に存在しているものの「背後」への視線を常に有しているという点である。

 

 

往々にして理系思考の人間は、現象の合理的解釈をもって世界の帝王になった気分になり勝ちであるが、それは思い上がりであろう。少なくとも合理主義は人間の心までは支配できない。

 

 

己の見えない背中に配慮することも必要だ。それができて初めて、合理精神は現実に力あるものになるのだと思う。

 

 

 

愛美さんのこちらの続編もよろしかったらどうぞ。

 

 

⟬閑話⟭ 私の心霊体験〜小学生時代〜 | あなたはだれ? (ameblo.jp)