沢田愛美様
秋になって何か良からぬことが愛美さんの身に降りかかっているらしいとは、記事から推測できたのですが、それが何なのか非常に訊きづらいのでそのままにしてしまいました。
いくら実際にお会いしたいっても、私は「組織」とは縁もゆかりもない小説の一読者に過ぎません。そして、その立ち位置を崩したくもないので、いくらか内心の苦衷に耐えながら小説の進展を見守っていたというところです。
ここで余計なことを言いますと、「閑話休題」は正統的な言葉の遣い方とは違うんじゃないでしょうか。「閑話休題」とは話の本筋に戻るときの決まり言葉なので、ここではむしろ「余談」とか単に「閑話」と言った方がいい。あるいは「閑人閑話」という熟語ならありますし、この際、「忙人閑話」とか造語してしまってもいいのではないでしょうか。愛美さんの用い方だと「閑話休題」の記事の方が小説の主流になってしまうので、本来の意図とは違ってしまうでしょうねえ。もっとも・・・・尤もですよ、私としては「閑話休題」の記事の方が愛美さんのホンネがよく語られていて面白いので、私の主観が捉えた意味としてならこのままでもいいようにも思うのです。しかし、将来書籍にするのでしたら、うるさい人もいますので、やはりここは再考された方がいいでしょうね。
閑話休題(笑)、実は愛美さんにお会いしたときに、かなり驚いたことがあったのです。しかし、このことは決して言うまいと心に決めていました。なぜなら、それはもろに馬鹿男の口説き文句によく使われるものでありましたし、愛美さんを貶めるつもりはなくても貶めていると受け取られても仕方がないような内容だったからです。
でも、愛美さんは極めて正直な人間ですから、私が同様に正直になっても非難はされないのではなかろうかと考え直しました。第一、愛美さんの祖父の年齢に相当するこの老いぼれが、今さらアブナイ言葉など発するわけがありませんわ。風愛友さんは心配していたようですが、それは買いかぶりというものですよ。
もったいぶっていないでもう率直に言いますと、驚いたのは、愛美さんの容貌といい、雰囲気といい、語り口といい、昔々のその昔、私が愛した女性とそっくりだったことです。
・・・・と、ここまで書いて、ジッちゃん、眠くなってしもうたので、また明日にしようと思っていたところ、またまた愛美さんが私の同じブログをアップされていたため、眠気が吹っ飛んでしまいました。
⟬閑話休題⟭ MBTI診断 INFP 仲介者 | あなたはだれ? (ameblo.jp)
ここで愛美さんが自己分析された結果現れた「仲介者」についても言いたいことはあるのですが、その件は後回しにしましょう。
閑話休題(笑)。その私の愛した女性というのは、少しく心を病んでいて、数年間にわたって家から一歩も出ない生活をしていた人でした。
きっかけは、彼女が10代の終わりに、ごく些細な失敗を気に病んだことにありました。といっても、そうなる背景には自分が父親に嫌われた子だったという強い負の意識があったのです。
私は、彼女が引きこもり中に幾度も書簡のやり取りをしましたので、ようやっと世間に出てこられるようになって私と対面した時に、初めて会ったような感じが全然しませんでした。
彼女は引きこもり中に文学書をむさぼり読み、自らも小説を書き、短歌を詠んでいました。なかなかの実力だったと思います。
こめかみをかすめて白き船行けり
俳句誌で入選した彼女の句です。(もうこれしか記憶に残ってないわ)。
彼女は、世間並のことには無知でしたが、人間に対する鋭い観察眼と寛容さには、私は舌を巻きました。そして、引きこもりの人のイメージとは全く異なり、彼女の印象はあくまでも明るく、人前で物怖じするようなことはありませんでした。
彼女は、むちゃくちゃ自分の心に正直な人でした。すぐ顔に出るので、彼女が何を考えているのか、私には手に取るようにわかったものです。
その後の話は・・・・これ小説じゃないんで、省略しますね。若い男女が共感しあったら、なるようになっちゃうものです(笑)。
でも一つだけ言っておけば、優しい人と結婚をして、(多分)今も幸せに暮らしています。20年前にたまたまレストランで会ったのが最後です。私は完全に「上書き」されているようで、そのことは噓偽りなくよかったと思いました。
そんな昔の彼女と愛美さんとが重なって見えたので、私自身の感情はやや揺れ動きました。(男の感情は上書きされない)。どうして、よりによって、こういう巡り合わせになるんだと、不思議な気持ちにさせられました。・・・・しかし、このことは口が裂けても言ってはならぬ! ←ったく安っぽい口だよね。
愛美さんご自身も分かっていらっしゃるようですが、心のゆらぎは丸見えですよ。自分では秘密厳守のつもりでも、小説の中ではヒントをたくさんばら撒いていますから、かなりの部分の秘密を暴くことが可能でした。
例えば、愛美さんが通っていた大学ですね。最初にそれが触れられたとき、私はまず95パーセントの確率であそこだろうと見当がつきました。地域のヒントに加えて、何とはなしの学内の雰囲気でわかるものです。私にも縁がなかったわけではないのでよけいなのです。それにしても、小説を読む限り、まるで受験勉強をしている様子はなかったのに、この難関大学に一発で受かるとは、愛美さんの学力は相当なものです。
しかしですね、愛美さんの嘘がつけない性格は、大きな長所だと思いますよ。物事の真実を追究するとは、口で言うのは簡単ですが、この3年余りのパンデミック状況における人々の反応、特に「インテリ」を自他ともに認める人たちの大半の反応を見れば、真実の追究などとはおこがましく、単に権威やその他大勢に追随しただけだったということがわかります。そういう姿勢は自己保身、エゴイズムでしかありません。
真実を追究するには、まずは自分に正直でなければなし得ないことなのです。利害得失を度外視した正直さを持つことは必要条件なんです。
では、どうしたら正直になれるのかといいますと、そこには「自分はもともと何物も所有しない無一文の人間なんだ」という人間観というか自己認識があることが前提になるように思います。だから、そういう人は、正直さを犠牲にして多少の利益を得ることに、大変な気持ちの悪さを感じざるを得ないのです。
私の人間観は、人間とはこの(小暗い)世界のただ中に投げ出された存在だということです。・・・・ハイデッガーですね(笑)。しかし、この難解な哲学者について喋々するとボロが出ますから一切触れないことにします。
その代わりに、似たような意味を示すリュッケルトの詩の一節を挙げておきます。マーラーが曲をつけたリートとして有名です。
Ich bin der Welt abhanden gekommen.
たいてい「私はこの世に見捨てられ」とか訳されますが、文法に忠実にド直訳しますと、「私はこの世界に手から滑り落された状態にある」となりましょうか。
abhandenという副詞の原意は「手から離れて」です。つまり、「私という実存は、気がついたときにはこの世界のただ中に孤独に存在していた」という意味合いになります。ここで「誰によって手から滑り落されたのか?」は、〈状態受動〉である以上、表面の意味としては問題にならず、ただニュアンスとして、〈誰〉がそれとなく暗示されるに過ぎません。西洋文化の文脈からすれば〈神〉でしょうが、それを拒否しても一向に差し支えないのです。
この「私という実存は、気がついたときにはこの世界のただ中に孤独に存在していた」というのが、私自身の人間観の根底にあります。何も所有せず、何の係累もなく、どんな社会的・歴史的な経緯もない状態です。そこが出発点であり、常にそこに立ち返りますから、まっさらな自分をさらけ出しても一向に恥と思わず、また、そうするしか術がないわけです。
ここで、本来的なもの、「手から滑り落される」以前の状態を回復しようとするロマン主義的な意志を、私は危険なものと見なしています。そもそも「滑り落とした」行為の主体を求めることなどできはしないのであって、それをできると考えるのは、仮構の世界に身を委ねてしまうはめになります。存在しないものを求めて右往左往し、自分の吐いたゲロに喉を詰まらせて悶えているのがロマン主義者の末路なのです。
そうではなくて、見捨てられた状態、手から滑り落された〈自由な〉状態を、自らの運命として甘受し、その状態に耐え、むしろ愉しんでいく、というのが私の主義です。
そうするとまた、サルトルがどうの、アンガジェマン(社会・政治参加)がどうのと言い出すうるさいやつらがいるものですけれど、ろくなもんじゃない、私はそういうのは無視しています。自由とは「~からの自由」が全てであり、「~への自由」なんてものはないと私は考えています。「~からの自由」が存分に享受できるからこそ、人は正直でいられるのです。
長くなってしまいましたけれど、最後に言っておきたいのは、私はほぼ無計画で行き当たりばったりな人間だという点です。愛美さんは、私の「巧みな話術に引っかかっていたのか」と書かれておりますが、話術どころか、私がむしろ口下手な人間であることに気がつきませんでしたか。
私は、見た目だけの人間であり、話すことはすべてではないにしてもおおむね正直であり、策略をもって相手から情報を引き出そうとする意図は持っていません。その点は愛美さんと同類なんですよ(笑)。
まだ話し足りないこともありますが、今日はこの辺でおしまいにしたいと思います。どうぞ健康にだけは気をつけてお過ごしくださいね。
esaumeister 拝