№1【日本建国・創建史学】の構築(自説) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…№1【日本建国・創建史学】の構築(自説)…始めに

 

ΙΑΩ=ヤオ】(大阪府八尾市の名称)の語元に始まる日本建国史…より…

 

★… 昨日(平成29年=2017/10/28/金曜)、定例会(ΙΑΩ/ヤオ・発信会)の人(奈良大学卒業)と話あって、【日本建国・創建史学】構築準備会を立ち上げる話をしました。以下、出来るだけその趣旨に従った内容を此処に書き続けていく予定です…つまり、我が国には【日本建国学】は存在しません。ちなみに現在の【国学】とは、「国語学」(文法等の学問)の事であって、それも尚、「奈良時代」(和銅3年=710年~延暦13年=794年迄)以前の事は解らないと、国語学者の小松英雄氏は言う。

 

★…【日本】(日ノ本=ヤマト)と言う呼称は、「ヒノモト国家・成立後」に言う呼称である…

 

…何故「ヒノモト=ヤマト」と言う国家的国称が成立したのか?。それは先ず、【ヤマトコトバ】(日本語)を共通語とする全国的(北海道等を除く)国家体制が整ったからである。此の事が意味する処は、国語と定義する【ヤマトコトバ】言語体系が整っていた事を意味表す。つまり、【ヒ=日/数値の1】。そして【ノ=格助詞】。【モト=本/元】等と意味づけする言語体系を完成させていたと言う事である。つまり、【ヤマト言葉】言語体系は、弥生時代中期(Ⅲ様式/BC31年以降)に完成させたものであり、けっして「縄文時代等の言語」ではありません。

 

…「日ノ本の定義」は、「Assu 」(アス…東/日ノ出の意)である。此の言語(アス)の行政的初出は、古代ロ-マがベルガモン王国を併合(BC133年以降/アジアの語元)した処に始まる。尚、日本語に言う【アスカ】(明日香/飛鳥)の語元(語源の意ではありません)は、【日ノ本・カミ代物語】(ニギハヤヒ・天降御座物語)文中の文言が語元である。ちなみに、【明日香】と【飛鳥】の語意は、【ホツマツタヱ】(『秀真伝』)文書に記述されている文言に起因する。

 

…【ホツマツタヱ】(『秀真伝』)とは、戦後(昭和20年=1945年終戦/大東亜戦争後)の【GHQ・公職追放】政策が薄らいだ頃の、昭和41年(1966年)に再発見された【カミ代文字・文書】(古文)である。その昔、我が国は「ホツマの国」(秀真国/袍圖莾句儞=ホツマクニ)と呼ばれていた。此の事は我が国の歴史書である『日本書紀』(国史大系・1)の「神武天皇31年条」に、確と、明記されている。従って、此処に言う【ホツマツタヱ】(『秀真伝』)文書は、「日本国家の正式的な歴史書」であると共に…《【日本人の聖書】(Bible)》…に当る。

 

 

★…【元初・ヤマトコトバ】(beginning Japanese Word)は、【ダニエル書】(5・25)に記す「Mene,Mene,Tekel,U・pharsin」(メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン)にある。此の言語を記した文字は、それ迄(BC160年代頃)、誰も見た事がない文字であり、唯一、ダニエル(ユダ部族)が読み解いたとされる文字言語である。

 

…古代ユダ民族の地、つまり、死海西岸地域(クムラン)から極東の此の列島へ移動して来た最初の一団は、ユダ民族の中でも特にエゼキエルの預言、即ち、【悔い改めの義】390年+手探りの20年=410年/BC177年頃)を全うした人達の子孫達と、その【悔い改めの義】を指導した宗団トップグル-プの人達バビロン居住の東方の3博士・占星術師を含/『新約聖書』マタイ伝 2・1~12の子孫あった。

 

…最初の移動宗団の人達(クムラン宗団・トップグル-プ)は何時頃、東方へ移動を開始したのか。それはユダヤ地域を襲った巨大地震年(カミの顕現/ヘロデ王の第7年)以後である。

 

…又、その最終的(第2回目)移動者達(バビロン居住/東方の3博士・マタイ伝2・1~12)が極東方面を目指し移動したのは、「BC3年頃」(キリスト生誕年)の事。その極東移動ル-トは先ずインド北部(チベット付近/仏教の発祥地ルンビニ/天竺に当る)に入り、新た成る国造に必要不可欠な新たな言語の設定と、その言語を用いた【三角数方式・ゲマトリア数値】を含む【秘儀数値言語】を設定した。その新た成る文字としては、【カロッシュティ-文字】を参考にして作成(現在に言う阿比留文字)した。その準備を整えて後、ギリシア系の大月氏国地域(現在アフガニスタン地域)を経由し、その大月氏の使者とする「伊存」(イソン)に連れだって後漢の「哀帝4年」(BC2年・己未)の時、哀帝に仕えていた占星博士の弟子(景慮)に【浮屠】(フトの経典(仏典とされている)を授けた。又、口頭にて、連れの【復立】(クムラン宗団者/後に言う神武天皇に当る)は次世代の王と成るであろうと伝えた。そして、その足で次世代の王【復立】(後の神武天皇)達一同は、極東の列島へと移動した。

 

…ちなみに、此の【復立】(後に言うタケヒト=神武天皇/辛酉=次世代の王)が、極東(現在に言う日本列島)に於ける「新た成る大陽思想によるカミの国・創建」に向けた指導者と成り、先ず、地形の探査(『秀真伝』日ノ本・カミ代物語/イザナギ尊時代に当る)を命じた。従って、此の極東地域の中で特に最極東に値する地域(現在の茨城県&宮城県一帯)を特定し、「暫定的・元初のカミ(含牙)祀り」フクメリキザシ=國常立尊の出現)を行った。

 

★…『魏略』(魏・蜀・呉/三国時代の書)によると…それは「哀帝期」(BC2年)の時。佛教亦透過大月氏而傳入、『魏略』(.西戎傳・載)「天竺(インド)又有神人、名沙拉(名前 → サラ/倭語=更・新。昔漢哀帝元壽元年(BC2年/己未)、博士弟子【景盧】(ケイリョ)受大月氏王使【伊存】(イソン)口受『浮屠・經』(フト・経典)復立者其人也。此即佛教史上著名的【伊存】授經(経典)。

 

…又、 『三国志』卷三十・魏志三十/烏丸鮮卑東夷傳・三)によると…臨児(リンジ)国ルンビニ国/現在はネパ-ルに位置する)。浮屠(フト)の経云ではその国王が浮屠(フト/仏陀=釈迦)を生んだ。浮屠(フト)は太子(仏陀)だった。父は屑頭邪、母は莫邪と云った。浮屠(フト)は身に黄衣最後の晩餐/ユダの服は黄色だったを服し、髮は青きこと青絲の如く、乳(産毛)は青く、蛉(瞳)の赤きこと銅の如し。始め莫邪は白象を夢に見て孕み、生まれるに及んでは母の左脅(左脇)より出で、生まれた時には髪が結われ、地に堕ちるや七歩を行けた。この国は天竺(インド)城の中にある。天竺には又、神人がおり、名は沙律(サツ/倭語ゲマトリア660。昔、前漢期哀帝の元寿元年(BC2年/己未)、前漢の博士(占星術)弟子【景盧】(ケイリョ)が大月氏王の使者【伊存】(イソン)から浮屠経を口受されたが、復立という者がその人である。浮屠(フト/経典)が記載する臨蒲塞・桑門・伯聞・疏問・白疏閒・比丘・晨門は皆な弟子の呼号である。浮屠(経典)の記載と中国の老子経とは相い出入(重複)しているが、恐らく老子が西へ出関し、西域を過ぎて天竺(インド)で胡人に教えたのだ。浮屠に属する弟子の別号には、合わせて二十九(クムラン大地震年に関連する数値あり、詳しくは載せられず、ゆえにこの様に略載した。

 

…【Qumran Sect】(クムラン・秘儀宗団)の、極東移動に於ける後発隊(BC3年/占星術博士を含む)達も、最初はインドの【ルンビニ】(仏教発祥地)に入った。つまり、釈迦開祖の仏教の根元は、【イスラエル・教】(YHVH=God)だったのだ。その証拠(筆者説)とするのは、釈迦が得道(悟りの境地)した時、現れたとされる【ア-トマン】(Ātman/気息の意) の事にある。此の【ア-トマン】の語意に対し、「気息を意味表す」と解釈されているが、ユダヤ教の後を引き継いだ『新約聖書』、然り、「始めに言葉在りき」(ヨハネ福音書/1章1節)と記すが如く、その言葉とは、ユダヤ教の基本原理り当る【カミ(上)の息】(秘儀数値300/カミの御魂)に関連するからである。そして、【ア-ト】とは、ユダヤ民族に言う「始めと終わり」(Α&Τ)を意味する言語であり、又、【マン】(Man)とは、ヨ-ロッパ言語圏のアルファベット言語(倭語・ヒト=人間の意)であって、此の言語(マン=Man)は、印度語のサンスクリット言語ではありません。

 

…北イスラエル王国は、アッシリア(サルゴン二世)の侵攻によって陥落(BC721年)した。そして近年、 【アミシャブ】(1975年に設立されたイスラエルの失われた10支族に関する調査機関/1975年=昭和50年設立)による、「失われたイスラエル10部族・調査結果」によると、BC721年=ホセアの第9年(南ユダのヒゼキヤ王・第6年)に、息子のサルゴン二世(722年~705年)によって、サマリア(北イスラエル)が陥落し、10部族の【高位者】達は、アッシリアの地に連れて行かれ、その後の消息は不明(聖書にも記述なし)とされる。従って考えられるのは、【チベット・ボン教】(BN=ボンは息子の意/ユダヤ教思想継続者)は、先述に言う【高位者】(ヨセフ系…マナセ&エフライム族)の子孫(BC630年・ペルシア人はザクロス山脈を西下/ゾロアスタ-教成立時代に関連する)によって創設された可能性がある。その初期的【チベット・ボン教】BC6世紀/ユンドゥン・ボン=永遠的宗教の意)の開祖とされる「シェンラプ」にれば、此の【チベット・ボン教】のル-ツは、チベット西方の「タジク」(ペルシア方面)や、「シャンシシュン王国」(チベット/マナサロワ-ル湖/マパム・ユムツォ地域一体)からもたらされた教えであるとボン教徒は信じているとされる。ちなみに、その「 マナサロワ-ル湖」の呼称は「マナセ族」(ヨセフの息子/兄弟のエフライム共々エンブレムは一角獣である)の呼称に関連すると私は考える。  

 

…現在…インド北部の「カシミール族」(人口は現在、約500~700万人位)は、インドとアフガニスタン国境付近に住んでいる。彼らは外見上ユダヤ人と酷似し、言語、習慣も共通点が多いとされる。ちなみに…【失われたイスラエル・10支族】の人達の中の、現在に言う「ナシュ族」は、マナセ族の末裔」(エンブレムは一角獣)とされ、インドで発見された。そして、そのインドから現在のイスラエル国に帰還(平成24年=2012/12/25)している。

 

…此処に言う【日本建国・創建史】とは、『秀真伝』(ホツマツタヱ)と、『三笠文』(ミカサフミ)文書に記す処の、【カミ名・文字】(God名の文字=秀真文字/ホツマモジ)を用いて記した歴年史文書内容の事である。ちなみに、その【秀真文字】に言う【カミ名・文字】(神代文字)に対し、戦後(昭和20年=1945年終戦/大東亜戦争後)に於ける【GHQ・政策】(アメリカ/連合軍政策)による日本弾圧政策(日本建国史の否定政策)に手を貸した、我が日本史(特に古代史)に於ける素人的な文献史学者達は、【カミ代・文字】(神代文字=ジンダイモジ)の存在に対し、否定説を唱えた。つまり、本当の文献史学者である平田篤胤(ヒラタアツタネ/江戸後期の国学者)が提唱した【神代文字】(ジンダイモジ)の【存在説】に対し、戦後に於ける古代史に於いては全くの素人に値する「古代史系・文献史学者」達は、全く何の検証もせずに否定したのであった。尚、そのたった1つだけ「否定説」(好い加減説)の砦としていた文献は、齋部(インベ)廣成(著)の『古語拾遺』(コゴジュウイ)であるが、それも、たった一部分の文面である。

 

…その文面には…「上古の世、未だ文字あらず」(ジンダイ文字否定説者=賀茂真淵/本居宣長/伴信友・等の否定説を学問上の定説とする)等と書かれていているが、後年、齋部廣成の後裔(コウエイ)である【忌部政通】は…神代巻口訣(忌部政通・著)と言う文書を用い…「神代の文字は象形也」…と言い、【神代文字…肯定説】を唱えていたのである。

 

…早い話が、此の戦後(大東亜戦争)に於ける我が国の【古代史系・文献史学者】達は、【ジンダイモジ】(神代文字)文書に対し、全く、何の自説も持ち得ていないと言うのが現状である。従って、此の好い加減説(否定説)も、『秀真伝』文書が再発見(昭和41年・1966年)された事により、不要の長物神代文字は存在する)と成りました。

 

…つまり、戦後に再発見された訓読表記による『秀真伝』文書内容(日ノ本・開闢物語~景行天皇迄の内容)を読み知れば、日本のアカデミ-系、文献史学(古代史)者達が【カミ代・文字】否定説の最後の砦と定義していた『古語拾遺』(齋部廣成・著)にあっても……《イワユル(所謂)【神代文字】(ジンダイモジ)の存在を【肯定】する内容》を以て書かれている事が良く解ります。従って【GHQ・政策】による戦後の日本アカデミ-文献史学者達が追随していた「神代文字(ジンダイモシモジ)否定説」は、『秀真伝』文書の再発見を以て、既に、「不要の長物」に成ったと言う事です。

 

…『秀真伝』(ホツマツタヱ)と『三笠文』(散逸書/ミカサフミ)文書は、【ヲシロワケ】(景行天皇)迄で終了の形式を取っているが、それは、【日本人の聖書】(Japanese Bible)として位置付ける為であった。ちなみに、此の『秀真伝』と『三笠文』(散逸書)が書かれたのは…《現存・日本書紀/国史大系1》…に記す【第14代・タラシナカツヒコ】(仲哀天皇&神功皇后/AD3世紀)から、【第16代・仁徳天皇】(AD313年~AD399年)時代頃にかけてである。

 

…『秀真伝』文書以前は、「カミノヨノ、フルコトシルシ」(カミ代・古事記)と言う文書が存在していた事を『秀真伝』文書は記している。然し、何故、『秀真伝』と『三笠文』と称し、それ迄の文書を書きかえなければならなかったのか?。それは、此の文書の筆者達の祖国(ユダヤ国)、即ち、【エルサレム・第2神殿】がロ-マ軍の攻撃で陥落(AD70年)した事を知ったからである。従って、祖国(当時のユダヤ国はロ-マに支配されていた)の歴年史数値(ロ-マ/ウェスパシアヌス帝・3年/AD70年ユダヤ歴年・創世記歴3860年に当る)を、我が【ヤマト】(日ノ本国)の歴年数値(暫定的・在位年数値・730年=AD70年)に接続する事にした。

 

…ちなみに、その文書の書き換えに当っては、【日本人の聖書】(Japanese Bible)として作成した。そしてその文書の名称(標題)は、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と【ミカサフミ】(ミカサフミ)であり、此の文書の書き換えを証明するのは、【太神宮諸雑事記第一】文書である。

 

以下【追記】(平成29年11月6日/月曜)

 

【フルコトシルシ】(旧事記/古事記)文書が、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と【ミカサフミ】(三笠文)と称し、尚、【日本人の聖書】として書き直し完成させた年は、「仁徳天皇天皇・50(AD362年)の時である。

 

…ちなみに、此の年(AD362年)の時としては…「我オ問ハスナ、秋津島、ヤマトノクニニ、カリコム529)ト、我ハ聞カジ」(武内宿禰/5・7調の答歌)と言う歌が記されている。此の答え歌(世の永人=武内宿禰)の意味する処は、新に【日本(ヤマト)人の聖書】として書き直した【ホツマツタヱ】(秀真伝)文書にあっては、「ミマキイリヒコ(崇神天皇)の崩御年」(在位通歴・631年)を示唆する文言であると共に、「千木の語元数値」(1160=529+631)をも示唆する内容でもある。

 

 

 

…此の文書【№1】の続きは、次ぎの【№2】( https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-12319096566.html ← クリックして検索のブログと致します…

 

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