【柳田國男の民俗学】は何処へ行く… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【柳田國男の民俗学】は何処へ行く

 

…現在に於ける我が国の民俗学は…【一般社団法人・民俗学会】(此の会の前身は柳田國男が1935年=昭和10年に設立した【民間伝承の会】)翼下にあり、此の会の創設者柳田國男(以下・敬称省略)の此の学問は途中で放棄れ形骸化しています。何故、此の学問の創始者で在るにも拘わらず放棄したのかを考えれば、其れは、大東亜戦争後に於ける【GHQ】アメリカ進駐軍の政策)に強く影響を受けたからであった。

 

…戦前(大東亜戦争以前)の【柳田國男】は…神社信仰の研究…に力を入れていた。然し、敗戦後に於けるアメリカの進駐軍は、「昭和20年12月/GHQに因る神道指令」日本の歴史教育の否定)に因って「神社信仰の研究」が閉ざされた。それで欧米諸国が既に導入(19世紀に始まる)していた【民俗学】(英語・ethnology/エスノロジ-)に移行(GHQの監視の目を逸らす意)した。つまり、此れが【日本・民俗学】の始まりであった。然し何故、柳田国男は自説の研究、つまり「神社信仰の研究」を突然放棄したのか?…。

 

…それは、民俗学に言う「エスニック」(民族≒文化人類学や比較言語学)と同じような学問、つまり、【文化人類学】と言う学問に名称を変更するべきだとする意見(『生活の古典・民俗学入門』本に記述)を石田英一郎(文化人類学の草分け的人物)が発言し、此れに対し、柳田國男の弟子達は誰も反論できなかった。然る後、その弟子達の不甲斐なさに怒った柳田國男は、自宅に開設していた【民俗学】の研究所(柳田國男の自宅…居間)を突然閉鎖し、会も解散した。此れ以降、全国にあった民俗学の研究的方向性は定まっていないのが現状である。

 

…民族学の重鎮で在った大林氏が死去した3年後(平成16年=2004年)、【日本・民族学会】が【日本文化人類学会】に改称された事を以て、【日本・民族学】は【日本文化人類学】に吸収された感が在る。因みに、【柳田國男】の【民俗学】は、当時のジャ-ナリスト(新聞・雑誌等に記事や素材を提供する人)からは正当な評価はされてなかったとされている。

 

GHQアメリカ進駐軍の政策)に因る…「日本の歴史教育の否定」(神道指令)…が、若し、無かったならば、つまり…柳田國男の「神社信仰の研究」戦前の柳田國男の研究)…が戦後に於いても、尚、継続していたならば、柳田國男説の元点思想(神社信仰の研究)に基づく研究の方向性は、自ずと…【日本建国・創建史】…的分野に向かっていたと私は思います。

 

…柳田國男は自宅に「民俗学の自主研究会」とする【木曜会】(1934年=昭和9年)開設し、理論書としての『民間伝承論』(1934=昭和9年)。『国史と民俗学/郷土生活の研究法』(1935=昭和10年)を刊行した。尚、全国各地の民俗学愛好者を以て【民間伝承の会】(1935=昭和10年)を組織し、全国の「昔話の採集」(昭和11年)を開始した。

 

…【GHQ】は江戸後期に始まる【日本国学】も弾圧した

 

…戦後(昭和20年・1945年…大東亜戦争以後)。それ迄の教育に携わっていた日本の歴史学者達はGHQによって日本の教育界から追放(監視の目が光っていたとされる)された。従って、歴史学に触れる柳田國男は、生き残りを賭けた選択肢としては、夫れ以前(昭和10年)に設立していた【民間伝承の会】(隠れ・日本民を、欧米諸国方式の【日本・民学】(欧米諸国等の研究方式方式を受け容れた学問)に名称を変えたのである。  

 

…欧米諸国の【民学】の研究対象は…【形】(鳥居/千木/農具等の形状)。【言葉】(語元…方言/昔話=口承文芸)。【心】(精神/祭…葬儀時の3回左転後に埋葬等)。の、「3つ」(①・②・③)が基本となる。然し、別な言い方をすれば、【日本・民学】の本質は、「聞き取り研究方式」。つまり、「文字に残らなかった庶民の歴史を探究する学問」であった。

 

…【柳田國男の民俗学】終焉は【年中行事成立思想】追求心の終焉・

 

…《【柳田國男の民俗学】終焉》…に伴い、現在に於いては【日本・年中行事】成立思想の追求心も停止している。然るに、【柳田國男】(昭和37年=1962年/88歳・死去)の著書は多々在りますが、其の中に『年中行事覚書』(最初は昭和30年10月に修道社から発行…柳田國男・著//講談社からは昭和52年第1刷発行~昭和63年12刷発行)と題する本が在る。其の最後の処の【解説】(田中宣一)に因ると…(前文略)「著者(柳田國男)は、家々、またある集団の伝承している年中行事を全国的に比較することによって、行事の本来持っていた意味や担っていた役割を明らかにし、ひいては日本人の神観念の問題に迫ろうとしたので在る」(後文略)と記している。然し、此の【解説】文が書かれた年(昭和30年12月4日)の終り頃、【柳田國男】は此の【日本・民俗学研究所】(自宅居間)の閉鎖(解散)を公言しました。其の閉鎖に至った経緯を少し説明(下記)すれば…
 
…其れは、石田英一郎(文化人類学の草分け的人物)が…「柳田國男の意図に背むいても、【日本・民俗学】を「広義の人類学」と位置づけるべきだ」等と提唱した事にあった。つまり、【柳田國男】が【日本・民俗学】研究所の解散(自宅居間が研究所だった)を公言した年は「1955年=昭和30年12月4日」。此の日、この1年前(昭和29年)の石田英一郎(日本文化人類学の草分け)が「日本民俗学の将来」と題する講演に於いて…「日本民俗学の将来は広義の人類学をめざすべきだ」等と言う柳田國男説を批判した事に対し、柳田國男の弟子達は何の反論も出来なかった。つまり、此の日、「柳田國男自宅(居間)研究所閉鎖(解散)公言」の場に於いて、柳田國男が怒るには…「日本民俗学は広義の日本史で在るにも拘わらず、民俗学の側から石田英一郎に反論出来ないようでは、民俗学の将来は誠に心許ない。かかる無力な民俗学者の寄り合いである【民俗学研究所】で在るならば、いっそ解散したほうがましで在る」等と、激しい発言が発せられたとの事である。そして此の研究所を閉鎖し会は解散した。

 

…だが、此の解散以前(6年前)。つまり戦後から約2年を経過した「昭和24年=1949年4月」に行われた【折口信夫】(オリグチシノブ)との対談の時、柳田國男は「一国民俗学の終焉」を宣言していたのである。それは、「民学と民学を統合した【人類学】の創成を展望していたとされている。

 

…元点回帰…【年中行事成立思想】解明の研究(筆者・説)

 

…『秀真伝』(ホツマツタヱ)と『三笠文』(ミカサフミ)文書に対し…此の文書は【日本建国・創建史】(筆者説)であり、尚、【日本人の聖書】(Japanese Bible)であると特定するに至った経緯と、その解明の糸口は、先ず神社の屋根に設置されている【千木】の語元、ル-ツを特定した事にありました。

 

…今考えれば、当時、私は民俗学の存在を知らなかった。そんな中、【日本・民俗学】の基本(3つ)とされる…《①【形】・②【言葉】・③【心】》…に対する究明方式に基付いた究明方式を無意識的に実行していた事になる。つまり、神社信仰は我が国の始まりに繋がっていると私は考えました。従って、【鳥居/千木】(チギ/トリヰ)の語元、そのル-ツの究明が第一と考え、此の研究に没頭しました。然し、それ迄は【鳥居/千木】の存在、又、日本の歴史(古代史)に対し全く無関心でありました。

 

…然して、日本国の【年中行事】の始まりや、其の成立思想に付いての研究は、【柳田国男】の【日本・民俗学】に因る独自的研究、即ち…「全国的な聞き取り調査に基づく比較研究」…を以て行うはずで在ったが、【柳田國男】の【日本・民俗学】の終焉と共に、其れ以降、停止した状態に在ります。然し、戦後に再発見(昭和41年・A,D,1966年)された【ホツマツタヱ】(秀真伝)文書や、【散逸書・三笠文】文書等(姉妹書【フトマニ/太占】文書)を研究すれば、【日本・年中行事】が設定された動機、其の思想の解明は身近なものと成っています。つまり、日本の「神道・成立起元」。又、其の設定思想の根元は、【クムラン・秘儀教義宗団】の極東移動後に於いて計画された【日之本国・創建思想】に在りました。従って、日本国の【年中行事】設定思想を知るには、古代に於ける【ユダヤ教・年中行事】を研究する必要が在りますが、然し、【クムラン・秘儀教義宗団】は、【脱・ユダヤ教】を目指しての宗団で在る為、其の変革思想をも知る必要が在ります。其の変革を知るに当っては、【ホツマツタヱ】&【ミカサフミ】文書に記されている【年中行事】(例えば三笠文の年中行事)が重要な参考文献と成ります。

 

【追記】(平成28年10月14日)…【民俗学】から【日本建国創建史学】への移行?

 

…【柳田國男】に因る…「全国的な聞き取り調査に因る比較研究」…其の研究方式は「文献排除主義」に当る。何故、此のような研究研究方式を編み出したのかを推測すれば、それ以前(江戸後期)に於ける【本居宣長】、【平田篤胤】、【鶴峯戊申】(ツルミネシゲノブ)等の国学者にしても、我が国(ヤマトクニ)の成立起元、又、神道の成立起元を見出せず、文献史学の研究方式に限界が在る事を柳田國男は悟っていたからである。従って、新た成る研究方式、即ち、「埋もれかけている民間伝承等の聞き取り調査」方式を採用したのであると私は考える。

 

…此のように考えれば【日本・民学】研究の方向性は、やはり、【日本建国・創建史学】的、新た成る学問へのチャレンジだったと考えられる。因みに、【日本・民俗学】に言う「聞き取り調査研究方式」には謎が残されていて、其れは柳田國男の好き嫌い的な選択肢であり、底辺的(部落関連)な研究には着手していません。

 

…【日本建国・創建史】(小島宏・説)解明の糸口は、【鳥居/千木】の形状と、其の語元との関連性に着目した事。それで先ず、【千木】の語元究明に成功(昭和62年=1987年)した事を以て此のル-ツ解明の糸口とした。その究明方式は、西域に於ける古代地中海沿岸文化圏の考古学的文献に求めた。その甲斐在って、着手から25年を経た平成24年(AD2014年)に、『図説ギリシア語聖書の写本』(B.M.メッツガ-著・土岐健治監訳/教文館発行)の中に発見しました。

 

…『日本書記』…「神武天皇即位年(辛酉)設定方式」の解明に至ったのは意図せぬ内に購読していた、『死海文書のすべて』(ジェ-ムス・C・ブァンダ-カム著/訳者・秦剛平/青土社・2005年3月25日第1刷発行)中の或一文(メルキゼデクテクスト・11QMelch)にあった。然し、其の特定に至ったのは、此の本を購入してから7年を経過しての事だった。それは会社の停年を社長から宣告され、新たな生き方を考えていた矢先(仕事中)であった。突然、或閃きによって、「メルキゼデクテクスト」の内容事が、我が頭の中で瞬間的に結び付いた事にあった。

 

…柳田國男の研究は未完の儘(ママ)に終焉しているが未練はあった事が窺われる。それは、【日本国・年中行事】設定方式の追求心にみてとれる。

 

…その【日本国・年中行事】設定方式を知るには、【クムラン・秘儀教義宗団】(脱・ユダヤ教宗団)の【年中行事・思想】を知る事にある。従って、『増補改訂・秀真伝』(大物主家の日本建国史/吾郷清彦=訳・新國民社発売)に書かれている内容を解釈することが出来る。尚、その文書内容は、インターネット検索、【ホツマツタヱ】/ http://gejirin.com/mitinoku2.html )を以て全文を読む事が出来る。

 

…【元始・ヤマト言葉】の起元は、先ず、【カミ代文字・言語】による統一言語の設定にある。その文字言語普及活動は、【日本建国・創建史】文書を確立した指導者達によって行われた。その初期的文字は、【天名地鎭・文字】(アナイチ・文字)だったと私は考えます。其の後、各々の部族間に於いて開発された文字にあっては、【ホツマ・文字】で書かれた文書、即ち、【秀真伝】と【三笠文】文書を有す部族文字を第一とした。

 

下記に【追記】(平成28年10月17日/月曜)…【定例会】(昨日)後のお礼報告
…昨日の【定例会】では、或高校(大阪府)の【日本・民俗学部】OBの人が3名。の他、其の高校卒業の人が1名。合計4名の人が参加してくれました。その4名の人に、此のブログ記事(現在・民俗学は何処行く)をコピ-(3頁)し、又、【日本建国・創建史設計図】平成28年=2016/10/15/土曜日/最終的完成図に至る)も、コピ-(計4頁)し渡しました。此の【定例会】の終了後、梅田(大阪市内)へ電車で出て、笹村氏(定例会の重鎮)の知人(2年前の京都での花見の時以来)とも再会しました。その【定例会】のメンバ-の【笹村氏】(ペンネ-ム)の紹介で始めて出会った数学教師の西田 紘(ヒロシ)氏のお陰で…「我が独自的研究方式に向けた活動のスイッチが入った」。それは今から約10年程も前の事。その日(真夏でとても暑い日)、私は神戸の【ユダヤ教会】に笹村氏と二人で行く予定だったが、西田紘氏も一緒に行ってくださった事で、此の本格的研究活動のスイッチが入った。

 

…電話で来訪故を事前に連絡しての【神戸・ユダヤ教会】行きであったが、教会の中に案内され、その担当の人が言うには、私の質問内容(古代・ユダヤ教思想)に対し的確に返答できるのは【ラビ】(最高者)だけだと言う。そして、その【ラビ】は夏の休暇を取って帰国中との事。そんな訳で私は残念な思いでいた時、(数学教師)【西田 紘(ヒロシ)氏が言うには…「此の問題はキリスト教の神父なら知っているかも知れない」と提案し、尚、西田 紘氏の知人で、キリスト教の神父さんを知っているとの事だった。それで急遽、大阪市内の某キリスト教の神父さんを訪ねると、突然的な訪問だった為、留守で会えませんでした。

 

…西田氏の一方ならぬ親切を無に出来ない事を考えれば、其れ迄休止(約18年間程…交通事故に因る後遺症に因る)していた我が独自的研究に対し…「新た成る研究方式へのチャレンジ向けたスイッチが入った日」…として認識するに至った次第であります。

 

…従って、此の日、此の時の出来事を契機とし、此の境地を以て【古代・ユダヤ教思想】の研究に本格的に取り組む方針を決めたのであった。そして、此の出来事から約10年を経過し、此の間、【日本建国史・設計図】を完成せた。そして【ミタケバシラ】(心御柱)の寸法割り出しに挑戦した。それは、【ゴルディオンの結目】B,C,750年頃の古代アナトリア地域/フリュギア王国の世継ぎに纏わる伝承)を解きほぐす心境であった。つまり…「アレクサンドロス大王は、その結び目を断ち切った」(BC333年)とされているが、私は、此の2日前(2016/10/15/土曜日)、最終的図表(日本建国思想・設計図)作成としては【究極的・完成】(難題的謎を解きほぐす)段階に到達していました。此の事については、最大な私の理解者で在る笹村氏(ペンネ-ム)の存在は元より、笹村氏の知人である西田 紘氏との出会いが在ったからこそ此の図表の完成に至ったのでありました。それで、そのお礼が言いたかったので、此の図表完成の翌日の【定例会】終了後、梅田駅付近での飲み会に於いて、其のお礼を言いました。

 

…最終的、究極の極致的な【完成図】とするのは、【ミタケバシラ】秀真伝36章)…つまり、『秀真伝』文書に記されている…「イクメイリヒコ(垂仁天皇)26年条9月16日…オオンカミ、ヰソススカワノ、サコクシロ~身(ミ/10/)丈柱を収めしむ」…に言う処の、【身丈柱】(寸法)の解読に手間取っていた事にある。然し、此の年、此の月(10月15日)に成って、ヤット、其の難問の解読に成功しました。此の難問解読のキ-ワ-ドは、【ヤタノカガミ】(八咫の鏡)の寸法設定方式にあった。此の語義に関連する「天(アメ)と千木との間隔数値」ダビデに関連する)の設定方式は…「式年遷宮設定方式()、エノク的秘儀数値、ヤマトの語元数値、真逆木数値、エノク週年数値」にあった。ちなみに、現在的、伊勢神宮の【心御柱】(シンノミハシラ)の寸法値は、「地上・約1m」。「地中・約60㎝」(計・全長約1m60㎝程)だが、「元来は半分が地中に埋められていた」と考えれば…「全長約2m程」…と言う事に成る。又、「天と千木との間隔数値」は、元初神の居住地的数値と、【ダビデ//David】イスラエル王国の初代国王)の数値にある事、然りである…

 

 

…(ランキング↓ ↓ ↓ ←  (クリック)…宜しく…

 

     にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
          にほんブログ村