…【ΧΡΙΣΤΟΣ】(キリスト)の語元は神社の【社】に秘められている… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

…以前のブログ記事…《【ΧΡΙΣΤΟΣ】(キリスト)の語元は神社の【千木】に秘められている》… ⇒                (此処をクリック、及び、ドラッグして検索の続きとして書く事と致します。

【追記】(平成26年9月7日・日曜) 
【ΧΡΙΣΤΟΣ】(キリスト)…此のギリシア語】表記の頭文字が【置・千木】(一般的神社の千木形状)で在る。

…此の
頭文字【】に言う【置・千木】の語意は、【完成された国】の意味である。

…我が国は古来より…《カミ)が完成させた国》…と呼ばれていた。とされている。因みに『大辞林』(第三の解説)に因ると…「ほつまくに【秀真国】とは、すぐれた立派な国。整い備わっている国」(磯輪上/しわかみ=日本書紀・神武訓注)記されている。

…然るに、ギリシア文字【Χ】(ギリシア文字配列22番目)は、【数値の1000】(イオニア式・数値)を意味表す文字である。其の【数値・1000】(千)の意は【完成】を意味表す。

…古代ユダヤの地域【クムラン】(Qumran)から移動(前31年以後~紀元前後頃迄)して来た、ヤオノアラビト】(『秀真伝』第23条八尾の語元と成る達は、それ依然、既に先発隊を極東方面へ派遣していた。その先発隊の子孫達は、【あめなるみち】(ホツマ紀…神武・東征前紀に記載在り) 、つまり、【カミ(上)の大道を敷く教義】今に言う【日本・神道】の意)を広める活動を開始していた。

…其の手始めは、「新た成る文字言語」(秀真48字配列言語)の普及。及び、各々の個別的な村造りに始まり、地域分け、国々の基礎造りで在った。その活動期間を終えた暁を以て発せられたのが、即ち…「ミマキイリヒコ12年条」(『秀真伝』)に言う…《ハツクニ(肇国)シラス(知らす)ミマキノヨ(崇神天皇の時代の意)》…で在った。

…我が日本の神社の
ヤシロ → 社】の語元は、【創世記】(72人訳ギリシア語聖書)に記載された【シロが来るであろう】(メシアが来るであろう)、つまり「ついにはシロが(Σilh)が来て」(創世記49・10)…の語意が取り込まれていたので。此れは、ゲマトリア言語(秘儀・数値言語)であった。然るに、【 IBAShILH 】イエバシロ-・語根数値358)に言う、「シロ-」(358)の言語が【ヤシロ】(ヤシロ)の語元てある。此の数値の意味は預言的【秘儀教義】(3×5×8=120+358=478)に起因(伊勢神宮建立年数値)であった。その「シロ-に言う言語数値の総計…120」(120萬)は、【日之本・カミヨ物語】(ホツマツタヱ文書/第1章)の中に取り込まれている。

…【文字・綴り】に於ける「ローマ・ラテン語」系のアルファベットには、【】(キー)の文字は存在せず、従って、ラテン語の【】を用いた古語(単語)も存在しません。然るに、ギリシア語文字を分解し、我が国固有の民族宗教である【日本・神道】に当て嵌めれば、即ち…《【Χ】(数値1000完成)・【Ρ】(トップ・頭)》……《【ΣΤΟΣストス場所)》…と成り、要約すれば…《「完成」(シメシア)を待つ住居(ΥaΣiΛh)》…と解するする事が出来る。

下記に【追記】…(平成26年9月9日・火)

世界最初西暦年基点年記載の『太神宮諸雑事記第一

…此の【秘儀数値・358】(ShILH・シロ)を用い、【唯一神明様式】(秀真・記号文字が組み込まれていると呼ばれる【伊勢神宮】が建立垂仁26年)した。然して、此の数値は、【ダニエル書】に起因する預言数値であった。従って、【ペシェル・pesher】(ヘブル語/死海文書)、つまり、「現在的な史実に対し、過去(事後預言)の歴史(垂仁天皇時代)に重ねて記述する方式」を用い、此の【秘儀数値・358】を活用(3×5×8=120+358=478)し…《伊勢神宮・外宮に豊受神の勧請》…を完了(成就/finish)させたのであった。

…此の豊受カミ勧請の件は、『太神宮諸雑事記第一』だけにしか記載が無い。そして、更に不思議な事とは、雄略天皇条をみると、「即位年から崩御年迄の間、1年も欠かさず政治的、世の中の出来事」等を記述している。此処「在位21年目」に至っては、 「白川御子・皇太子成る」件、他、浦島伝説(300年間)文書の存在的な記述が短く記される。つまり、この浦島物語が意味する処は、「伊勢神宮建立年」(垂仁天皇25~26年)を意味表す【ペシェル・pesher】的、【秘儀数値】であった。

…此処に言う…《世界最初…西暦年の始点年設定方式…を記した文書》…とは…『太神宮諸雑事記第一』…の事で在る。

前文略す)…「但皇太神宮天降御座之後径四百八十四年…(後文略す)」(
太神宮諸雑事記第一

…その文面が意味する処は、「西暦477年」(雄略21年丁巳)から過去に遡れば、つまり、「四百七十七- 四百八十四年 = 紀元前七年」(B,C,7年) に当る。それは又…『現存・日本書紀』(偽書)の、【磐余彦】(後の神武天皇)即位前7年でもある。つまり、「神武天皇即位1年が西暦1年(A,D,1年)として設定されている事を明記しているのである。

…つまり、【磐余彦】(後の神武天皇)に因る【長髄彦・討伐物語】の開始年は…「西暦・前7年」(天鈴51年・甲寅)であると共に、此の記事を以て証明する処の、その歴年数値(雄略記の此の部分)が意味する処は、【創世記】(ノア・大洪水年)数値を【高天原・秘儀数値】ノア・大洪水的水害の回避的祭り年数値)に繋ぎ、その中間に対し、想像的【アメ】(天)と命名(造語)。、更に造語した数値言語【千木】(チキ)に数値を繋ぎ合わせた事を示唆する意味を込めて、【浦島伝説】(物語)を創作していたのであった。然るに、此の文書を企画した人達は…《【クムラン】(Qumran)・秘儀計算方式》…を知っていた人達(伊勢神宮の神官関連者)だった言う事である。

…【西暦年】が西洋で設定されたのは「6世紀」の時。然し、我が、【元始・ヤマト(日本)国家建国】、即ち、「紀元前・1世紀」の終り頃(紀元前31年以後の極東移動者達)は、既に、其の、【メシア・来臨暦設定方式】に因る、【国家創建・暦】の、其の「施行方式」迄をも保持していて、然る意(『日本神話』の創作)を以て、【ヒノモトクニ(日之本国)・建国1年目】と成す、メシア来臨暦】(天鈴暦が施行されたのである。

…因みに、紀元前、即ち、【B,C】(紀元前)的な歴年計算方式は、マルコポーロが、極東の我が島国の情報を知った時、其れ以降に於いて、紀元前的、過去に遡る歴年設定計算方式の必要性を鑑み、編み出しされた「歴年設定方式」であった。然して、我が、日本の国の過去の歴年へと遡れば、『旧約聖書』に記載されている【アダム~ノア迄】の、其の【生涯年数値・8575】に行き着く。此の数値を用い、『秀真(日本)神話暦』(天鈴暦・300萬年迄)の歴年数値(179萬2470年)を編み出していたのであった。

…【追記】①…『秀真伝』(ホツマツタヱ)文書は、「オシロワケ」(景行天皇)迄で終せているが、其の文書の歴年史系譜に繋ぎ合わせ、編纂されている『現存・日本書紀』(偽書)に於ける、其の系譜の接続設定方式はどのようにして編み出されたのかと言えば、其れは、【磐余彦】(後の神武天皇)の「即位1年目」の年が、【創世記・3941年目に当っている事を、『逸書・日本紀()』を編纂した人達は【ダニエル書】の【黙示・数値】を知っていたからである。

…当時(5世紀頃)の倭国の頂点を成す人達(伊勢神宮の神官関係者達)は、遙か西域に位置する祖国の…《Jerusalem(イェルサレム)陥落年(ローマ・ウェスパシアス帝3年目)》…をも、既に把握していた。従って、「神功紀」(神功皇后紀)に言う、其の歴年史を記載するに当たり…《「239年条…卑弥呼の記事」(A,D239年)》……《「247年条…宋書(百済国伝416年)の記事》…を記載し合致させたのである。其の内容は、「8年間」の間隔年の中に於いて、「169年間」もの年代間隔を有す記事を併用し、掲載したのであった。然して、何故、秘儀教義の技術を用い、外国との交流的記事(記録文書)を此処に掲載したのかと言えば、其れは、即ち…《Jerusalem・陥落年》…の年代に対し、【倭国歴年史の歴年を接続させる必要が在ったからだった。然るに、此の謎解きも、『太神宮諸雑事記第一』に記載されている文中を良く調べれば解るように書かれている。

追記】②…【卑弥呼】の事に触れる「神功紀」(神功皇后)に於いては、「神功紀39年条」に記載されているが、其れは何を意味するのかと言えば、未だ、「西暦年が存在しない時代」で在るに関わらず、既に、我が、【倭国】当時の漢民族の国が言う呼称)に至っては、既に、現在に言う【西暦】年と、同等の神武天皇即位1年目を歴年の起点と成す)を用いていたのであった。

…先述の歴年値を鑑みれば、「169年」(A,D416年)もの未来記的記述のように見れるが、結果として考えれば、後付的(5世紀に於ける現在進行形に記述されている事に起因する)に補足された記事と言う事になる。然して、其れは何を意味するのかと言えば、此の記事を書いた当時(5世紀)の人達は、現実的な状況を、単に、素直に記載していたのであったが、Jerusalem陥落年を把握した事を以て、其の陥落年(70年ダニエル書の預言的中)と、現在年、及び、『秀真伝』文書の年代との繋がりを秘密裏(ユダヤ民族のテーゼ関連する)に繋いでいたのである。その証明と成るのが、【広開土王碑】(414年に設置) の歴年(日本の暦と同等の干支年数値を取り込んでいる)である。従って、【広開土王碑】の【任那】5世紀)の初出年代と、『秀真伝』文書(秀真・35章)の記述内容は同時代の事出来事と言う事でありました。

『秀真伝』文書の存在が戦後(大東亜戦争後)に於いて「松本善(ヨシ)之助氏」に因って再発見(昭和41年)され、公の場に、其の存在が明るみに出て以降、現在に至るも、我が日本国の文献史学者たる人達は、何をしているのか。文献史学者たる者は、文献を研究するのが仕事であろう。然して、現状(大東亜戦争後)の歴史教育のあり方を鑑みれば、今の、文献史学者としての肩書きは無きに等しい。

…然るに、我が国に於ける戦後の文献史学者(大東亜戦争後に於ける寄せ集め的、無能史学者)達の注釈に因ると、『現存・日本書紀』(偽書)の、「神功紀」の解説に至っては、【三国史記】(1145年完成・中国文献のパクリ的朝鮮史書)を引用する有様で在り、且つ、単に、「干支・二つ(120年)をスライドさせれば絶体年代に近づく」(『日本書紀』著者・山英夫)等の解釈しか出来ない有様で在る。従って、「我が国に於ける文献史学者としては恥ずかしい限り」で在る



脱字、誤字、読みづらさ等の修正を兼ねての、此の続きは、後日と致します…


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