【ハルマゲドン】&【盾津】と【ミタマノフユ】の意義に付いて | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!


【ハルマゲドン】&【盾津】と【ミタマノフユ】の意義に付いて

 『新約聖書』…「ヨハネ黙示録16章から」 …


…前文略…「七つの鉢を地の上にぶちまけよ」…斯くして「第一・第二・第三・第四・第五・第六」(中間記述は略す)の御使いの鉢がぶちまけられた。すると、水(ユーフラテス)は日の出る方から來る王たちに道を備へる爲に枯れてしまった。…(中間略す)…彼(悪霊)らは全世界の王達の処へ出て行く。万物の支配者である【AL)】の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めたのである。見よ、私は盗人のように来る。目を覚まして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。こうして彼らは、ヘブル語で【ハルマゲドン】と呼ばれる所に王達を集めた」。第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所から出て来て、【事は成就従した】と言った。すると、稲妻と声と雷鳴が有り、【大きな地震】が有った。


…【メシア来臨思想】…は【元始キリスト教】に始まったのでは無い…

…【メシア来臨思想】は、【元始キリスト教】が成立(A,D.31年以後)した年より、凡そ156年前(起元前125年)、【儀の教師】の教義を以て、既に設定されていたので在る。然る後、新たに結成された【ダマスコ契約クムラン秘儀宗団】が唱えた思想が【メシア・来臨思想】で在ったのだ。

…此の【秘儀・クムラン宗団】の存在が明らかに成ったのは、此の宗団者達が隠し残した文書が、近年、発見された事に在ります。其れが、『死海遺跡巻物』です。然るに、此の文書は「1947年」(イスラエル国家国連で承認された年)に発見され、其の文書が、後年、解読された本(日本語に翻訳)が出版された事(筆者購読)に在りました。従って、凡そ、其の発見年から遡る事「2000年程昔」に活動していた【秘儀・クムラン宗団】の存在が、世界の新聞記事(20世紀最大の考古学的発見と賞賛)と成り、
世界の人達が知る事と成りました。


…然るに、此の文書の日本語訳の本を購入したのは、奇遇的な経緯(18歳の時・40年程昔の事を思い出した事に起因)に在りました。偶然、其の本屋の近辺で知人と待ち合わせる事と成り、然る後、単に、覗き見するつもりで入店したので在りました。其の本屋とは、大阪難波の【旭屋書店】で在ります。然るに、フト、目に止まった「本のタイトル」(『死海文書のすべて』(ジェームス・C・ブァンダーカム著)…「訳者・秦(ハタ) 剛平(ゴウヘイ)…青土社発行」)が、気になり、購読した次第で在ります。

…【クムラン宗団】結成(前156年頃)を以て成る【メシア来臨・思想教義】。其れは【ΧΡΙΣΤΟΣ】(キリスト)思想に於ける新た成る…《【カミ】(の国創建願望&成就の義》…で在った。

…【元始イエスキリスト教】(A,D.31年以後)に言う「イエス教メシア思想説」は、初期(前156年頃結成)の
ダマスコ契約クムラン秘儀宗団】に言う【ΧΡΙΣΤΟΣ・思想】の意では無い。現在の【ローマ・キリスト教】(A,D 247年を起元と成す)的な教義に至っては全く異なっていて、日本国の【日本・神道】(ΧΡΙΣΤΟΣ・思想)に言う「キリスト・思想」は、現在の「ローマ・キリスト思想」に対しても、全く、其の根本的思想が異なっている。

…我が国に於ける『現存・日本書紀』に記載されている【磐余彦東征物語】に於ける、其の前線基地【盾津】(現在の近鉄線吉田駅北側付近)地域だった処は、正に、『黙示録ヨハネ16章)』に記載されている【ハルマゲドン】的に特定され、此の
磐余彦東征物語】(創作)の、其の原案者は【クムラン宗団】の教義を知り尽くしていたので在る。


…『死海遺跡文書
の、【最終戦争】(戦いの書)とは、「光の子ら」と「闇の子ら」との【最終40年戦争】の想定で在った。其の中で「安息日が5度5年)」ばかり巡ってくるが、其の安息日には、如何なる戦闘も許されない。 残りの35年の中の29年の戦いは均衡するとして、其の最後、乃ち、「最後の6年戦争」が【ハルマゲドン】に当たるとされている。 


…つまり、『現存・日本書紀』記載に因る、磐余彦(イハワレヒコ・後の神武天皇)東征の年は、【磐余彦45歳】(甲寅・51年)の時と記載する。では、其の干支の最初に当たる【甲子・1年】の設定基点は、一体、何を元に、基点を設定したのかと言う疑問が沸き起こります。然し、我が国の戦後(大東亜戦争)に於いては、進駐軍の、其の「マッカーサー・指令」に迎合する人達の集まりの中から選ばれた文献史学者達(歴史学者)に至っては、先述の、其の疑問に対し、何事も答えを語れる術を、全く持ち得て居ませんでした。従って、其の流れの儘(ママ)を現在に至っても引き継いでいる関係上、我が国の文献史学者達は、此れから先、何時迄立っても、此の問題の答えは見付ける事は不可能であろうと私は思います。…因みに
、『秀真伝』文書の「第28巻迄」(漢字訳文付文書・天皇磐余彦の東征前紀迄)は、時の明治政府に奉呈(明治7年7月)されていたので在りました。此の奉呈文書(『秀真伝』)は、現在「内閣文庫本」として保存済み。

…然るに、「神武天皇即位元年」が「辛酉58年」でなければ成らなかった理由に付いては、『死海文書』(日本語訳本)の中に記述されているが、其の根拠の確たる証拠に行き着くには、其れから4年後(2005年)の、「秀真記述の歴年・図表」(汎用 CAD・製図作成ソフト)の完成に在りました。然して、確たる証拠文書としては『死海文書』に取り込まれている『ヨベル書』の文中に見出した。


…東征
甲子1年設定」の根元は、干支年の「最初の1年目設定」に求めるのでは無く【磐余彦】(イハワレヒコ)の即位1年目、つまり【秘儀数値58】(秀眞暦サナト年)に求める必要が在る。何かと言えば、【メシア来臨思想】の成就(finish)後に於ける…【ミタマノフユ】(恩賴)…の宣言に在ったからで在る。

…「磐余彦(イハワレヒコ)・東征開始」(甲寅51年)」…から「6年数え7年)」(ヨベル7年に関連する)的、【秘儀数値】が取り込まれて成す処の、其の『現存・日本書紀』(偽書)記述が意味する処とは、【逸書日本紀)】記載の【秘儀数値】にも、其の、謎の答えを見出す事が出来る。此処に言う、『現存・日本書紀』(偽書)に対し、何故、【偽書】と定義するのかと言えば、其の以前の書で在る
逸書日本紀)】の断片が此処に保存(名文書・メイブンショ)されているからだ。つまり、「養老四年奏上・日本紀続日本紀に記載)記述に在っては…《『日本…【】…紀』》…では無く、の文字の追加は、後年(720年以降)、【日本紀】(ニホンギ)文書が書き換えられた事を意味する証拠(秘儀数値が刪定されていた)と成る。

…此のブログ中の【三つの画像図表】の一番上の画像は、三番目の図表の右上の部分(ヤオ表記)を意識的に大写しにしたものです。又、真ん中の地図の画像は、【盾津】(大阪府・近鉄吉田駅北側)を表した「インターネットの地図」を取り込んで転写しています。然るに、此の地図的画像を取り込んだのは、現在、【盾津】と言う地名が町村併合的政策に因って、現在、其の地名が無くなっている。それで、其の地名が無くなる以前の名残的な地名を有す【盾津東中学】の名称を此処に示したかったからです。

…【盾津】とは、「磐余彦(後の神武天皇)・東征」に於いて、最初の戦線地点で在った。そして、最初の作戦「龍田越え」が困難だった故の転戦(現在の玉串川を経て河内湖の盾津に陣を構える)は、「河内湖(大阪湾の古代期の状況)」の、「アウエモロ(春日部族)」の館付近に【】を以て陣を構えた。それが、此処【盾津】の地名と成る。

…因みに、現在に言う「柏原市」付近の大和川を下降し、「二俣現在八尾市志紀駅付近)」付近で枝分かれして成る支流的「ヤマトガワ」(現在の玉串川)の、其の川沿いを、つまり、「近鉄線山本駅付近」→「花園駅付近」→「吉田
駅付近」へと川を東へ進み、行き着いた地点に【盾津】を以て陣を構えた等と、『現存・日本書紀』は記載する。然るに、苦戦を余儀なくされた磐余彦軍は、生駒山(クサエ坂)で苦戦強いられ【盾津・陣】(現在の東大阪市)から【ヤオ】(現在の八尾市)へ引き、【ヤオ祭事】(ALカミ)を行った。従って、【ヤオ】(現在の八尾市の語元)の語元は、『秀真伝』文書記述に由来するので在る。

…何故、ヤオと呼ばれたのかと言えば、此の「東征物語」自体が創作物語であるが、此の物語が書かれるに至ったのは、此の、日本列島の、当時としては此の列島の主要な島々の、其の全体的地形を把握し、且つ、其の主要地域の地形を熟知する迄に至った時代(2世紀~4世紀頃)を迎えてからの事で在る。従って、「東征物語は」とは、統一的ヤマト国家の形成を成すに当って意図的に創作された物語と言う事に成る。然るに、ヤオの語元は、「ユダヤ捕囚・解放年」、及び、【伊勢神宮・建立年】に関連する数値を以て命名されていた。

…【八尾市の語元】…然り、「磐余彦神武天皇)・即位1年目」、及び、「オシロワケ景行天皇)」迄の「統治年数値」(790年)。又、現在に言う「西暦1年キリスト誕生年では無い)が未だ設定(A,D 6世紀に設定された)されていなかった年代の時に在って、其の、ユダヤ民族の地に住していた「クムラン宗団」のトップの人達は、既に、其の設計図的【秘儀数値・構図】、其の、青写真的図形を完成させていたので在る。そして、此処に言う【秘儀数値・構図】の中には…「ユークリッドの完全数」…をも取り込んでいたので在る。

追記2013/10/25金曜)…平成25年10月25日(金曜)

『旧約聖書』に言う漢字表記の【創世記】とは、後年に於ける日本人用に翻訳れた聖書用語で在る。然るに、原典的其の聖書の名称は…【Berashith】(モーセ5書)…等と言。尚、【日本開闢神話】の元初神、つまり『現存・日本書紀』(偽書)に記す…「元初神國常立尊クニノトコタチノミコト)…に対する尊称語【】の意を考察すれば、其の原典的語意を漢字表記で以て最初符した字が【】(ミコト)だが、其れは「)・」と同義語を意味する。日本語(母国語倭語)に言う、【ノチ】とは、【秘儀】(秀眞文字解読表は既に作成済み)的に解せば、「」の頭語に当る「の語意は、「ヤマト数値5」の語意をも含むので在る。而して、「神代第5代目オオトノチオオトマエ」に言う「5代目ノチ後の意)」の意を以てしても、其の名称、つまり…「数値【】()の意と【】(ヰ・ノチ)の義は、秘儀的に同義語と成る」

…『秀眞伝ホツマツタヱ)』 文書に言う、神代の時代(日本神話)は、「タケヒト」(後に言う磐余彦…神武天皇)の時代に於ける『ヤマトウチ(倭討ち)』(秀眞文献記載現在に言う東征物語)の章(29章)の中の、「東征前期の記載を以て、神話の部分は終り」的な形に成るが、此の文書構成は、話しの筋を切らず、【人の代】(タケヒト即位元年・サナヱ年)へと繋げられる。尚、【卑弥呼】(神武天皇の妾の系譜)に付いて調べるなら、一般的には『三国志』の「倭人伝」を読むに始まるが、其れ以前の『前漢書地理史』をも検証する必要が在る。其の【卑弥呼】とは、『秀眞伝ホツマツタヱ)』 文書に記載されている【5代ヨソタリヒメ】(自説)で在り、其の血筋は、「タケヒト」(神武天皇)に繋がっている。尚、【卑弥呼】の後を受け継いだ【壱与】(イヨ臺与?)とは、『秀眞文文書の【第6代期オシヒメ】(三国志・東夷伝の壱与に当る)と私は考える。

…『日本神話』が先に書かれ、其の後に『日本・歴代史』(現在に言う神武天皇即位から以後の歴代史)…が編纂されたのでは決して有りません。先ず最初(B,C31年以後)は、極東の列島の中に於いて、小さな国々を成立させ、其の小さな国々を纏めて成す【日本国家成立】を以て…其の後(『秀眞伝』 記載…オシロワケ期天鈴暦843年)に…《【ヤマト(日本神話】…から始まる…【ヤマト(日本歴代史】(神武~景行天皇期迄)の文書》…が作成されたので有ります。


…「2014/1/7火曜…下に追記す」…此のブログの冒頭、『ヨハネ黙示録』に言うヨハネの荒野とは、『死海(遺跡)文書』(1947年発見)が隠されていた付近で在ります。尚、下の図表は【ヤオ】(現在・八尾市の名称)の語源を解き明かした図表(2013年12月31日・完成)です。


ヤオの語元を知れば西暦1年(元年)設定基点年を知る事が出来る…と成す意味は、「元始・ヤマト言葉」には【秘儀数値】(ゲマトリア)が秘められている」と言う事で在る。然るに、上から三番目の画像(【ヒエラルキー構図・図表】)の歴代史(神武~景行迄)に於ける在位年(『秀眞伝』歴年史)が、『現存・日本書紀』(偽書)と全く同じなのは、「オシロワケ」(景行天皇)迄の「神代文字・文書内容」が漢字に書き替えられているからで在る。…尚、其の【ヒエラルキー構図・図表】に於ける各々の大君の在位年が、どのように設定されていたのかと言えば、其の秘密は『秀眞伝』の神話の中に、其の謎を解く数値が施されているので在った。従って、それらの数値を此の正月(平成26年)明け早々に整理した結果…日本ALの歴年数式の完成と成りました。其の数式は…

…話しは変わりますが、「NHKスペシャル・神の数式(第2回)」(テレビ放映)…の話しの中に於ける、【物理学的数式】に於いて、【完全数・496】(神の数式より)が表われた事を知りました。然るに、西洋に於いて、現在に言う西暦を以て言い表せば、起元前後頃には、其の【完全数】…《【6】・【28】・【496】【8128】》…は、迄に発見されていました。そして、『セプトゥアギンタ(ギリシア語・72人訳)』(旧約聖書)には、其の【完全数】の最初と二つ目迄、乃ち…《【6】・【28】》…の二つの数値が取り込まれているとされている。

…而して、「我が国の『秀眞伝』文書に於ける【日本ALの歴年数式】とは…10000 - (8128-496)=2368…&…10000-(????+ ????)=786』(在位的歴年景行56年に当る…と成る。つまり、『秀眞伝』文書に於ける「タケヒト・即位元年」(後の神武天皇・辛酉元年)から、「オシロワケ・56年」(後の景行天皇・丙寅)迄が記載されていて、此の最終年(天鈴暦843在位的通年786年)とは、乃ち…《『秀眞伝』奏上年(天鈴暦843在位通年的786》…と成る。従って、【秀眞・日本神話】の中に於いて、既に、其の『秀眞伝』文書は、【】と成す【秘儀数値】が始から設定されていて、且つ、其の事を示唆した文面を神話の中に組み込んで創作されされた文書だったと言う事で在り、換言すれば…ミタマノフユ思想】…を以て成す…『秀眞伝』文書は日本人の『聖書』として構成されていた》…と言う事で在ります。 

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