【浦之崎・佐代姫(塚)】と創設【日本(ヤマト)民族学】に付いて… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!


 




…此の佐代姫)・神社佐賀県伊万里市山代町…浦之崎に存在する)は、日本史に於ける[ガラパゴス的]位置に在ります。如かして、此処に
言う…《浦之崎の佐代姫神社伝承》…は、我が日本史の中の「先史」(古代史以前)に於ける、「宣化二年537年」の条に記述されている「大伴狭出彦・任那出陣」に関連する。其れは、我が国に於ける歴史に在っては、我が国最古的【史跡塚】に値するのでは在るが、如何せん、辺鄙(ヘンピ)な地域に在っては、埋もれた儘(ママ)の史跡と成っているのが現状で在る。然し、我が国の歴史書に、其の起元の起点年を有す【遺跡・塚】で在る事には全く変わりは在りません。即ち、然る歴史を秘めし【佐代姫塚】は、辺鄙(ピ)な地域(浦之崎)に在っても、尚、現在(2014年10月22日)を以て、「1477年間」を経るも、【村社】(は明治時代の建築)等の祭事を継続し、脈々と今に、其の伝承を伝え残してきているので在ります。然るに、現在に於ける政治の変革に起因する動きを注目すれば、【平成26年9月3日・第2次安倍改造内閣】に因る…【まち・ひと・しごと創生本部】(地方創生・本部)が発足した処に、【我が村興し】のチャンスかと私(筆者)は思う次第で在ります。思えば、我が家の側に生息していた希なる【ハマボウ(黄槿)の花】の木(三本)が、小学3年生の時(昭和30年)の初夏の或日(担任の先生の家庭訪問の日)、無惨にも切り倒され、抹殺された。そして、故郷の綺麗な海岸も、次第に炭坑のボタ(泥廃土)で埋め尽くされた。従って、我が家は立ち退きを余儀なくされ、綺麗な海、海岸は、今は、無惨な景観と化している。「そんな、我が故郷を蘇らせたい、其の一心で生きてきた思いを込め」、去年(平成26年3月)、在る事を計画した。そして、其の実行に向け、二度、帰郷し、其の計画を具体的に纏める事が出来た。然る後に発表されたのが、政府に因る
地方創生】政策で在る。此の政策を利用すれば、何とか、其の計画的、我が夢が叶えれる予感がしてきた次第在ります。

…話は元の【佐代姫塚】の史実説に戻せば、「大伴狭出彦・朝鮮半島への征船」の年から、およそ二世紀程(約200年)の歳月を経た頃、『万葉集』にも記載された「
松浦佐用姫(『万葉集巻五・868871)を謹敬した筑前司・山上憶良(660~773年・
868、及び、此の歌に感化されてか、其の後、太宰府師(ソラ)・大伴宿禰旅人・第871の歌にも詠まれた松浦佐代姫伝承は、此処を発信源(現在の唐津)として、世間に広まって行く事と成る。そして、此の歌に起因する伝承が脚光を浴びるに従って、それなりの地域的(海・山・池等)伝承に従って、各々の観光施設等も増えてゆく事と成り、現在に至っているので在る。然し、「佐用姫の遺体発見的伝承」は、此の「万葉歌人」達の歌を根拠とするも、「歌の内容に至っては、死に関する事は詠まれていない」ので在る。従って、【松浦発信説・死期的伝承】は、歌人達に詠まれた後に言う【後付説】で在る事、然りで在る。

…然るに、【筑前国・松浦発祥…佐用姫遺体発見伝承】に対し、【後付説】と、ハッキリ、此処に提唱する、其の根拠とは、即ち、【佐賀県伊万里市山代町立岩 …浦之崎】に、
【佐代姫・塚】が現存するからで在る。因みに、筆者は、此の地に生まれ育った事を以て、現在、我が郷土史の研究を行っているおります。

…従って、現在に言う【松浦佐用姫悲恋物語】は、唐津に於いては【伝承】であろうが、我が故郷(浦之崎)に至っては、
歴然(宣化2年・西暦537)とした【史跡】(佐代姫・塚)に基付く歴史的悲恋物語として位置付けされねば成りません。然して、今(2014/10/22/火曜・現在)から過去に遡る事1477年昔の【サヨヒメ】と言う御名が、現在の天空を仰ぎ見れば、実際的には肉眼では全く見えないのでは在りますが、【惑星】(新惑星発見・三個の中の一個)の御名に採用され、宇宙の中で光輝いているので在ります。

サヨヒメ】(松浦佐用浦之崎佐代姫の名称が、宇宙の星】(新星の発見に因っての名称(呼称)として採用されていて、其の呼称(名称)を有し、光り輝いているので在ります。

…然るに、此処に言う【浦之崎佐代姫神社】に関しては「4月のブログを参照されたし…【ブログURL】… ⇒ http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11512068673.html) ← (此処をドラッグ・若しくはクリック)。

…古代…肥前(唐津地域)に於ける「佐用姫伝承」 とは、【日本紀(ニホンギ)】(720年奏上逸書)、『風土記』(721年以後の文書)が作成された「8世紀前半頃」以降の創作話で在ります。其の発端は、【山上憶良】が筑前守(神亀三726年)に任じられ、其の4~5年後頃、【大伴旅人】が太宰府師726年頃)として着任。そして、其の両人が歌壇を形成したとされています。然るに、其の頃の【山上憶良】達の歌(後の万葉集に記載)の中には、【松浦佐用姫】に関する歌が詠まれていますが、『現存・日本書紀』には…「狹手彦往鎭任那 加救百濟」…等と記し、其れ以外の【佐用姫】の名称や、其の【悲恋話】等の記述は、一切、記載されておりません。

 
「松浦県佐用姫の子が領巾(ヒレ)振りし山の名のみや聞きつつ居らむ(万葉集第868)…【筑前国司・山上憶良】(730年・天平2年7月11日・憶良謹敬す)。

「天平2年7月11日の山上憶良の歌に感化され?【大伴宿禰旅人】・詠む」↓ ↓ ↓

「遠つ人松浦佐用姫夫恋(ツマコヒ)に領巾振りしより負へる山の名(万葉集第871)…【大伴宿禰旅人】。


…因みに、『肥前風土記・逸文』では、「サヨヒメ」と為す漢字表記は、『万葉集』に記す「佐用姫」(山上憶良・他の人も詠んでいる)表記と違って、「乙等比売オトヒメ)」と為す漢字表記を以て記載されています。

…而して、我が日本史に於ける古代史、以前を言うの事。其れは、『現存・日本書紀』記載(宣化二・537年)の「狭手彦・朝鮮半島への派遣(任那の地)」当時、中央の政府の政策からは目が届きにくいかと思われる地域、乃ち、現在風に言えば、[ガラパゴス的・地域](現在地佐賀県伊万里市山代町浦之崎)、つまり、此の辺鄙な「浦之崎」(旧・国鉄松浦線の浦之崎駅の近く)に存在する、【佐代姫)・神社】(現在・村社扱い)の「由来記」は、下記の「ブログ」に記載しています故、参考にされたし。

 小惑星の名称【佐用姫】(七夕に寄せてのブログ)
erusaremu464の投稿http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11296847539.html
テーマ: (参考ブログ…[佐代姫]伝承を記載しています)

…「伊万里市山代町史」(佐賀県伊万里市山代町浦之崎)の【佐代姫神社伝承】に因れば…「此の確乎(確固?)、不可働、之、遺跡ハ、我、西松浦郡ノ西端ナル、山代ノ立岩沿、海中ニ在ルモノニシテ、往昔ヨリ、専ラ土人ノ口炙スルトコロヲ聞ケバ、該遺跡ハ、我々祖先ガ、一日、海辺ニ至リシニ、不圖(図)一個ノ、小沿岸ニ、漂着セルヲ見ル、因テ、怪シミ、直チニ、彼ノ、船辺ニ至レバ、内ニ一人ノ婦人アリテ、頭ニハ、漆黒ノ如キ、髪ヲ長ク垂レテ、背ニイタリ、身ニハ、美麗ナル服ヲ着シ、其相貌(ぼう)、如何ニモ、普通ノ人ナラネバ、義捨去ニ忍ビズ、終ニ、此地ニ葬レリ、跡(後)ニシテ聞ケバ、之レ、タダシク、佐代媛ノ遺体ナリト、依テ、ココニ石碑ヲ立テ、以テ、其霊、地魂ヲ、慰メタリト、之ニ依テ、之ヲ考フレバ…伝々(後文略す)」等と記されていております。

…此の、【佐代小夜姫神社縁】(…昭和13年8月26日)の内容は、即ち、我が国の先史(奈良時代以前史)に於いては、中央政府が関知出来ない程の辺鄙な地域に在って、埋もれし、我が日本国の歴史の痕跡を止める遺跡()で有ると言う事で有ります。

…以上…「佐賀県伊万里市立岩 ・浦之崎」に存在する【佐代姫・塚】に起因し、建立された【佐代姫神社】(村社)の伝承に関しては、『山代町史』(伊万里市・市史編纂室)に記載されています。


…以下【追記】(平成26年・2014/10/22/火曜)…

…以上の記事(去年…平成25年・5月29日)を書いてから、其の後、【桜・植樹】の計画の話が進まぬ儘(ママ)、1年半をも少し過ぎた、「今年10月19日~20日」に【第37年度・山代中学校の同窓会】を、故郷では無く、始めて近畿に於ける神戸で開催しました。其の同窓会のメンバーに【桜・植樹】を以て…《【浦之崎】の町を始め、【山代町(伊万里市)を桜の町とする会】》…の計画を提案した処、地元で活躍しているメンバーの方達が、力に成ってくれる事と成りました。従って、最初に於ける【桜の苗木・植樹】(品種・3種類)を行う場所が、具体化して来ました。然るに、【植樹の季節】は、来年の冬(1月~3月頃)、と、大方、決めていますが、果たして、此れはどうなるのか、予断は禁物で在ります。

…【日本ヤマト民族学の立ち上げ構想以下【追記】(2014/10/23/木曜)…

…そもそも『民俗学』(柳田国男)とは、つまり【民俗学】と定義するならば、【世界中の民俗】を範疇とする必要が在る。然し、我が国に言う『民俗学』とは、其の殆どの研究内容は日本の国内を対象としているのが現状であります。然して、『民俗学』(柳田国男)に言う処の…【①・俗】と【②・族】との用い方の違いに付いて説明すれば、つまり【①・俗】の漢字を用いる時は…【①・単数民俗学】(と訳される。そして【②・族】の漢字を用いれば…【②・複数民族学】の意とされる。

…然るに、現在に於ける我が国は、【単思想・日本(ヤマト)民族学】(柳田国男①民俗学)的に従えば、【単思想・日本(ヤマト)民族国家】(現実的にはユーカラを民族思想とするアイヌの人達も存在する)とみなされているので在るが、何故か、【単思想民族】に言う【ヤマト ⇒ 日本】の文字を省いての『民俗学』と定義されています。

…然して、従来に言う『民俗学』(柳田国男)の、此の【学名】(民俗学)の語頭に…【日本⇒ ヤマト…の文字を冠する事を以て、新た成る学名『日本民族(俗ではありません)学』と標題(定義)するとれば、其の学名に対する【命題】(定義)、即ち…《日本(ヤマト)とは何ぞや》…と言う問いが生じる事と成る。従って…《【日本】←ヒノモト ←ヤマト ←【明治19年・文化人類学誕生】←【『古事記』等の文献重視的考え方からの脱却】》…等の流れの根源を示唆すれば、『古事記』等の文献からは【ヒノモト→ 日本】の正体(祭儀・及び日本建国思想)が見い出せず、文献思考から方向転換が図られた処に辿り着くので在る。在って、其の探求心は【民間伝承】等に於ける【言語】、【伝承】等の採集へと矛先が変わっていき、最終的に『民俗(族ではない)学』に落ち着いたと考えられる。従って、『民俗学』の目指すヒエラルキー的体系に於ける、其の頂点には、【日本(ヤマト)建国思想】の解明が想定されていたのだろうと、私は思う次第で在ります。因みに「柳田国男(民俗学の創始者)先生は始終一貫して【日本人学】を追求されていてた」とされています。…然るに…『民俗学』を形成するヒエラルキー的頂点に位置する【日本人学】の、其の【日本】と言う文字を冠するとすれば、【日本人とは何か】と言う答えを先ず用意しておく必要が在る。然し、其の答えを追求する過程に在っては、【日本】と言う文字は、冠する事が出ないので在るが、然して、其の答えを見出した暁には、即ち、【日本・民学】(ではない)と称し、【21世紀の礎】と成るような『日本・建国史学』への扉をも開く事が可能と成るので在ります。

…然るに、従来に言う『民俗学』(柳田国男)の総本山で在る処の、其の研究会の研究所(柳田国男先生自宅内・事務所)は、既に、【解散】(創立10年目・昭和32年4月7日に事務所は閉鎖された)され、其の幕を閉じています。以後、其の蔵書と資料は定款に従って寄贈者(柳田国男先生)に返されますが、先生は、此れを【成城大学】に寄贈されました。然して、正式的には《昭和32年8月5日・財団法人【民俗学・研究所】の解散が許可された事を以て終焉と成る》。

…其の後、其の流れを引き継ぐ事務所は、【教育大学】から【成城大学】(東京都世田谷区成城町708・大学内【伝承文化】)に移された。尚、各々の地域に至っては、北は青森県から南は沖縄県(琉球)に在って、個別的団体(地方民俗学研究団体)の、其の数は…「81・団体」(昭和59年6月20日・現在)に及んでいます…。

…此処に言う【日本(ヤマト)民族学】於いては、【日本国家・建国史】に於ける【皇暦】(在位年歴等の合計数値年に匹敵する)を遡る事、【神武天皇・即位1年目】に辿り着くので在りますが、然し、其の元年(1年目)を現在の世界暦(西暦年)に当て嵌めれば、【西暦・1年目】に当る事と成る。つまり、【日本国家・建国起元1年目】とは、【西暦1年】に当たっていると言う事で在ります。

…従来説、つまり「全国歴史教育研究協議会」が定義する【日本史】に因る…【日本文化の黎明~縄文文化~弥生文化】を用いれば、【神武天皇・即位1年(元年)】は【弥生文化中期】、即ち【西暦紀元1年目・日本建国起元年】と成る。従って、従来説に言う…《神武天皇即位年・前660年説》…を完全に否定する事と相成ります。



…此の続きは…進展に従って【追記】する事と致します…