【日本神話・終着基点地】(大阪府八尾)の「玉櫛(串)川の桜・画像投稿」 | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 


 

 
 
 

 

 
 …此の日(2013/4/2・火曜)の…「朝夢思い出の桜)」…に感化され、其の日の昼過ぎ、自転車(現場には駐車場が無い)に乗って、一人、自宅から自転車では30分程の距離に在って、其の夢に現れた思い出の「玉櫛(串)川の桜」(満開に咲いていた)の写真を撮りに行きました。そして、何となく回り道を撰んで帰宅する気持ちが沸き起こり、それで、又、別の昔の思い出の道を辿る途中、何時の間にか方向を間違えていました。つまり、「北向き」(金物団地方向)で、家の反対方向に向かっている事に気が付きました。其の方向転換として、裏道を撰び、右へ転回。少し進むと、何時かは行ってみたいと思っていた「八尾市立埋蔵文化財調査センター」(交通の便が悪い場所に在った)の真ん前に来ていました。従って、約二時間程見学し、「八尾市考古資料」を少し持ち帰りました。

 …画像の「桜並木」は、「玉串(櫛)川」( 旧大和川)の五月橋近鉄山本駅南側)の近くです。現在の大和川は、其の昔(1704年・江戸時代)に付け替え工事が行われ、因って、今は柏原市から羽曳野市、そして松原市を経て、其の本流としては堺市の海へ川口の向きが変えられています。然し、其の昔は八尾(志紀二俣付近)から川が分岐し、双手に別れ、東側に分かれた川が今に言う「玉櫛(串)川」。此の川の終点は、其の昔に言う河内湖(現在・東大阪市付近)で在ります。尚、本流とされる大和川(現在の長瀬川)は、川俣地域(JR・八尾志紀駅付近)]から、西に分かれ、現在に言う「JR・久宝寺駅付近]へと流れ、其処から又、北(西に分かれたのが澁川だった)に向きを変え、「河内湖」(現在東大阪市高井田・盾津付近)へと流れこんでいました。

 …八尾市(大阪府)は、其の昔、未だ、日本国家が成立していない時代(日本神話時代)に在って、「磐余彦(神武)・東征物語」の時代としては、弥生中期(紀元前後の中間時代)に当たります。換言すれば、【日本神話・終着期点時代】に当たります。つまり、「遠征期間7年」(宮殿の完成)を経た翌年の初日(正月・朔日)を以て「畝傍の橿原に、宮柱を底磐根(シタツイワネ)に太しき立て、高天原に搏風(千木)峻峙(タカシリ始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」…等と、古語を以て称えられた事が『日本書紀』に記されています。此の即位から一夜明けての朝からは、いきなり【神代の時代】から【人の時代】へと其の時代は早変りする事に成りますが、此れは、飽く迄も創作物語で在りました。

…【神武天皇即位1年目】(58年サナト≒辛酉)を以て成る皇歴起元(歴年初年)を以て、世襲制が用いられれています。換言すれば、乃ち、「踰()年称元法」(翌年を元年と成す方式が施行されたと言う事ですが、此の方式は、古代ユダヤ民族の【世襲制】(先氏の権威を引き継ぐ)が取り込まれていて、此の方式は現在(平成25年)に至っても、尚、継続され続けられる事と成っています。然るに長髄彦彦の討伐後、「何故、一夜明けに於いて、いきなり【神の世代から人の世代】へと代ったのか?」と言う事に付いての文献的検証に於いては、既に解決済みですが、此の事に付いては、又、別のブログと致します。然して、次は、「磐余彦(神武)・東征物語」の歴史的検証と致しましては、【考古学的検証】を残すのみと成っています

 …而して、「神代から人の世代」への接点は、古代ユダヤ教のthesis(テーゼ・命題)に起因しています。此の事に付いては、先日のブログ…「秀眞39章…ツヅウタ(続歌・19文字)は神代にも有り」…に記しましたが、其処の記述、即ち、「神代にも在り、一百七十九萬二千四百七十餘」(モモナソコヨロフチヨモモナソホ」の意味する処は、『日本書紀』以前の文書、即ち、『ホツマツタヱ』文書に記述された【カミヨ・物語】(日本神話)に取り込まれている【秘儀数値】(数秘術)に起因する数値で在りました。要訳すれば、日本神話は【事後預言】的に創作されていたと言う事で在り、此の【日之本・カミヨ物語】を書いた人達は、【死海(遺跡)文書】(1947年発見)を書き残し消息を絶った【Qumran Sectb】(クムラン・秘儀宗団)の人達だと結論付けている次第です。

 …[磐余彦神武)]は、長髄彦との戦に於いて【難波の港】(ミナトの呼称は秀眞伝に記載されている)に入り、先ず、【ヤオ】(現在は八尾市の名称に成っています)に本陣を敷きました。そして、「大和川を遡り龍田の道は並びえず」(道が険しい川は亀石が邪魔して隊列が組めない意)等と『ホツマツタヱ』文書は記していて、此の事は、現場の状況を良く知った人で無ければ解らない状況的な内容と成っています。然し、龍田越えが果たせず、川筋を戻り、今度は、予てからの同盟軍(春日氏族枚岡神社の氏神)の拠点地(アウエモロの館の付近)に近年タテヅの地名と成る)を設置し、其処を拠点として「クサカ日下」が決行されました。然し、原典(秀眞伝文書)を把握しきれていない【日本紀】(逸書)の編纂者達は、「皇軍は、川を遡って河内国の草香邑の青雲の白肩之津に到着した」等と辻褄が合わない内容として記載していて、『現存・日本書記』(刪定書的偽書)の此処の部分の内容は、改竄(白肩之津的語彙の問題)されている事が良く解ります。

 …「原典」(秀眞)が記す「タケヒト(磐余彦・後の神武天皇)・東征物語」の実質的内容は、「西暦・紀元前後頃~4世紀中頃迄」と筆者は推定しています。つまり、【秀眞暦】(天鈴暦)の設定基点年を定義する必要性に於いて創作された【カミヨ・物語】が書かれた時には、既に、其れは、決められた、或ストーリ-に基付いて、尚、予め設定さた【メシア・来臨起点年】の設定の筋書きに因って書かれていたと言う事で在ります。従って、【タケヒト(神武)】即位1年は【天鈴暦】(アスズコヨミ)に言う【サナト年≒58年】(辛酉)として設定されたのです。此の暦の設定は、未だ西暦年が存在していない時代(紀元前31年以後)に於いての施行で在って、6世紀に設定された現在に言う西暦1年目(キリスト生誕年では在りません)に当たる年に対し、既に「タケヒト(神武)・即位1年目」として設定されていたので在りました。

…大阪の「河内湖・時代」を考古学的に検証されている内容を知る必要に於いて、今年からは、其の考古学的検証に力を入れようと思っている次第で在ります。而して…『現存・日本書紀』(国史大系)の、其の[秘儀数値]に於いて、[逸書・日本紀」(720年・奏上)に記載されていたトータル的[秘儀数値]に先立つ[基礎数値](神代の歴年数値)が刪定(削除)されている事を鑑みれば、『現存・日本書紀』の記述内容は、刪定(削除)した部分に対する辻褄合せの改竄が行われた可能性が在ります。

…今年からは、来年に向けた我が取り組みと致しまして、上記、乃ち、「神武東征時期に関する河内湖の埋め立てられて行く過程に於ける考古学的年代検証」に着手する意に於いて、近々、「八尾市の考古学資料の取り込み」を開始しようと思っていた矢先で有りました。つまり、此の日(平成25年4月2日)の[朝夢]に顕れた彼女の姿に感化されて、[玉串桜並木](彼女との写真の現場付近)の写真撮りを思い立った次第で在りました。然るに、今迄、私は自分の写真機等は持った事が無く、而して、携帯電話(妻が使用している)の写真をパソコンへ取り込む事を、今頃、ヤット憶えた事を以て、此のような行動(携帯電話のカメラの使用)を思い立った次第で在りました。其れが、「運良く功を奏す」の如くの展開に到った次第で有りました。と言うのは、【玉櫛(串)川】の桜の写真を撮り終えた後、回り道(時間を伸ばす)を以ての帰宅方式を選択した事で、何時の間にか、家に帰る方向を間違っていました。其の事に気が付かず、或交叉点の表示(東大阪市・金物団地付近)に気が付いた時は既に八尾市の外れ近くに来ていました。其処でヤット気が付き、右へ曲がり、裏道を少し進んだ処で、其れは、「偶然的な幸運の極み」と言うか、何時の間にか知らずしらずの内に「八尾市立埋蔵文化財調査センタ-」(此の付近の地理は全く知りませんでした)の真ん前に導かれて来ていた次第で在りました。

 …此のブログの、其の桜の写真画像は、八尾市【玉櫛桜並木】の一部分で在ります。此の桜並木は、私が大阪へ就職した頃(15歳頃)、未だ木の長さは[1メートル]程の苗木でした。其れが、其れから約50年程を経た現在は、大木に育っていて、「東西約2キロメートル」程(其れ以上かも知れません)の川沿いに咲く「桜並木の開化状況」は、風も穏やかな中に在って、ちょうど満開の頃を迎えておりました。

下記に【追記】(平成28年・2016/04/14/04/木曜)

…上記の記事投稿から、早、3年を過ぎました。其の3年前の【玉櫛川・桜見物】(近鉄山本駅付近)の帰り道、偶然、「
八尾市立埋蔵文化財調査センタ-」へ立ち寄った次第です。そして其処で【構造船】(八尾市の遺跡から発掘)の遺物を見た事を以て、其の遺物の発見現場付近(神武町)の考古学的検証結果を考察しなければ成らない事を痛感した次第で在りました。従って、其の後、先史に於ける大阪湾の【弥生期・考古学】の史料等を求めて研究を進めてまいりました。そんな中に在って、今年(2016年)の3月頃、【神武町】と言う町名設定の経緯を知る事と成り、尚、【竹渕神社・縁起】(光正寺文書)に辿り着きました。此の縁起(由来)書に因りますと、我が国最古の歴史書とされるにも拘わらず、其の『現存・日本書記』(刪定書的偽書)に記載されていない事項が記されていたので在りました。従って、【タケヒト(神武)・遠征物語】(即位以前)の時としての「ヤマアトカワ」現在に言う大和川の語元)の語元の解明に成功致しました。然るに、此の語元が意味する処は、「カワの語元」、「ヤマの語元」然り、此の命名者達は【死海文書】(1947年発見)を書き残し、消息を絶った【Qumran Sectb】(クムラン・秘儀宗団)の人達で在る事をも証拠付けるもので在りました。

…此の続きは後日と致します…

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