【胞衣&大御食神社】…[神代文字]は存在する… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 

 
 
…[恵那神社(岐阜県)]と、[美社大御食神社](2012/3/28~29)に、友人と、其の友人の自動車に乗って、我が妻を合わせた3人で、一泊二日の予定を以て訪ねました。

恵那神社]は「天照大神の御胞衣(へそ等)」が奉納された事に由来しております。そのことは我が国最古の歴史書とされる『古事記』や『日本書紀』には記載されておりませんが、幻の文書であった『秀真伝』文書には其の状況に関する事等も踏まえてつぶさに記載されていて、其の「恵那胞衣)神社の由緒」が記された掲示板の文字を写真に撮ってまいりました。又、其の翌日には、[神代文字]で記された社伝が伝承されていると言う「長野県駒ヶ根市赤穂11,475番地」に建立する[大御食神社]に行き、其の[大御食神社]に辿り着いた直後、偶然、社務所の女性(其の奥さんは知人宅へ出かけられる寸前で有った)と境内の中で、ばったり出会った事が幸いし、念願で有った其の神社の[由緒書(縁起書)]を頂ける事に成功致しました。
…此処迄(書きかけ)…以降の文は、後日(岐阜及び伊那地域の神社探索記)に加筆する予定ですので宜しく御願い致します。…
  …其の後日…[4月16日]を以て、続きを書きます
 先代(サキツヨ)の、美濃(岐阜)に於ける恵那の地名は、[天照大]の[エナ](御胞衣胎盤)が納められた事に由来し、伊那(長野県)の地名は、[イザナギ命]と[イザナミ命]から生まれた[ヒルコ](天照大神の姉長女)の名に起因する地名で有ります。つまり、棄てられ、流された[ヒルコ]を拾って育てたのが[住之江の翁]で有ります。而るに、現在、兵庫県西宮市に建立する[ヒロタ神社]は、其の由来に起因します。そして、[住之江の翁]の教育を受けて育った[ヒルコ](後の御名が[ワカ姫]で有る)が作った、「五七調ウタ」(定型歌)」に対し、[ワカ姫]が創ったウタ(歌)の意を以て、[ワカ(和歌)]と呼ばれましたので有ります。後に、弟の[スサノオ]に、[ワカ](和歌)の極意を伝授したので有りました。

 …或出来事(政府に対する大規模な反乱)等に絡んで、其の反乱軍が鎮圧された後のウタが…「ヤクモタツイツモヤヱカキツマコメニヤヱカキツクルソノヤヱカキ(『日本書紀』は[]と表記している)」(スサノオの歌)…と言う和歌が詠まれる事となった等と[ホツマツタヱ]文書は記しています。然る後、[オモイカネ(思兼)命]と結婚した[ワカ姫(ヒルコ)]は、[ヒノクマ(日前神社]と[クニカケ(國懸神社](双方の神社は和歌山県に建立されています)を創建しました。而るに、現在的漢字表記[和歌](ワカ)の用い方は、後年に於いての[当字]で有ります。

 …信州の[伊那の語源]は、[調]に於ける倭語の[数値読み的言語]に起因しています。つまり、[]とは[]で有り、其れが信州の[伊那()]の地名で有ります。つまり、[定型詩…ワカ]に言う、[(・ナ()調]の設定は、[ワカ姫]の御名に由来しており、従って、[ヤマトタケ(『日本書紀』は日本武尊と表記している)]が、東北の討伐後、此処を通りかかった折の、祟り的排除に関し、[ヒル](蒜等の意にも対応させている)の語彙を用いたのは、其の昔から此の地域を支配していた[ヒルコ姫](ワカ姫の意)の神意にあやかっての事として用いられていたので有ります。

 …然るに、我が国の古代史文献を読めば、[オモイカネ(思兼)]の子孫…乃ち、「八意思兼命]と、其の[児天表春(ミコアメノウワハル]は、信濃国の[阿智の祝部(ハフリベ)]の先祖で有る」(阿智村史より)と記されていていました。而るに、[阿智]の語源(『秀真伝』に記述有り)は、[思兼(オモイカネ)命]の別名で有る[アチ](アチ彦…サオシカとも呼ばれた)の事で有ります。

 …[伊那]の地域に伝わる神楽の[吾道女(アチメの舞]の起元は、村上天皇(天暦年間…947年)以前迄をも遡ることが其の[地元史・文書]には記されております。




  …一番下の画像は、[大御食神社]の掲示板です。此の神社の[神社由来書]は持ち帰りました。此の神社の由来書は、[神代文字物部文字)]で記載されていた事を、落合直澄明治の神官者)が認めております。
追記】(2013/6/13/木曜 此のブログに「画像」を新たに投稿致しました。つまり、昨年の上記のブログ記事に対し、今になって画像を投稿した意味は、昨年は未だ、画像の投稿方式が分からなかったからでした。元来は此の画像を投稿するのが究極的目的だったのですが、イザ、と言う時に至って、画像の投稿方式が分からなかったので有りました。それで、その時は上記の記事だけを投稿した次第で有りました。従って、其の、「掲示板の記事」に関する説明を更に少し、簡単ながら下記に説明させて頂きます。
 
此の、掲示板、乃ち、【恵那(エナ神社由来書の内容は『秀眞伝ホツマツタヱ)』と呼ばれる文書にだけ、「天照大神の誕生秘話的な内容の意が記載されているので有ります。其の事が意味する処は、「『秀眞伝(ホツマツタヱ)』と呼ばれる文書内容の伝承が、古代期(奈良時代頃弓削の道鏡に因る焚書)に於いてでも、尚、生き残っていたと言う、物的証拠で有ると言う事で有ります。

 …然るに、此の「恵那神社由来書」の記事内容に関する事は、『日本書紀』には、全く記載されておりません。然るに、我が国最古の歴史書として、現在の文献史学者達が『写本伝承・現存・日本書紀』(現存古事記は歴史書では有りません)を崇めるが…
「現在の、我が国の戦後(1951年9月8日調印…1952年4月28日正式終結)の文献史学者達は、我が国の先史(サキツヨ)の歴史に関しては、全く知らない」…と、言うのが現状で有ると言う事も、確と、認識する必要が有ります。

 …然るに、『日本書紀』自体、「逸書日本紀)」(養老四年720年)が奏上され、其の後の歴史を綴る歴史書とされる『続日本紀()』が作成されるが、其の文書の作成に於いても、紆余曲折が有った等とされています。つまり、今となっては憶測の域を出ませんが、【真実探究】(藤田友治史学の基本)の意を以てすれば、「逸書日本紀)」が、『現存・写本伝承・日本書紀』の前文書に擦り替えられた可能性が有ると言う事に於いて、シッカリと検証する余地があると言う事でも有ります。

 …此処に掲載した画像(掲示板)の[恵那神社由来書](恵那神社は岐阜県の恵那山付近に建立)を、此処に投稿した意義を、再度、下記に記します。

 …然るに、元初の「逸書日本紀)」(720年)が奏上された以降、其の後世に編纂されたと考えられる『現存・日本書紀』の、特に、其の文中の神話の部分に関しては、『秀眞伝』文書内容が、漢字に書き替えられる過程に於いて、其の当時の編纂者側の都合の良いように書き変えられたり、あるいは、都合の悪い部分等を刪定(サンテイ鶴峯戊申の著書より)されたりして、漢字文書に書き換えが完了後、「ホツマツタヱ(秀眞伝)」文書を初めとして、その他の[神代文字・文書]が焚書、及び、抹殺的弾圧(生島問答より)が行われた…と、私は考えす。