山口県に政治家が多い事をユダヤと繋がる田布施システムだと左翼やDS発信者が広めるが、昭恵夫人は7月12日のご葬儀で安倍前総理が尊敬した吉田松陰の一節を引用。

松陰は伊藤博文等を育てむしろグローバリストに乗っ取られ天皇の意思を無視し不平等条約を結んだ幕府を批判し処刑された。

 

 

 

以下は上記のページにある吉田松陰についての内容です。


安倍前総理がとても尊敬した吉田松陰はとても優秀で10歳で兵学を修業、わずか11歳でお殿様に 御前講義し19歳で独立し教授に。外国船が次々と日本に来る欧米列強の存在を知り、日本の将来に強い危機感を持ち国を守るために全国を周り労を惜しまなかった。幕府を批判したことでわずか29歳で処刑された。

処刑前日の松陰の遺書「 留魂録」 身はたとひ 武蔵むさし の 野辺のべ に 朽く ちぬとも 留置とどめお かまし 大和魂 「私が死んでも、国を思う私の気持ちだけは永久に残しておきたい」 という歌から始まる門下生・塾生たちへの遺書であり、そこに込められた松陰の意思は志士たちに受け継がれた。

下関は幕府が不平等条約を結び欧米に国を売る中、国を護るため欧米何ヵ国とも戦った。 松陰は1年あまりで90余名もの塾生たちを育て、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋等の優秀な人材を育て上げた。 それなのにユダヤに支援されただけという田布施論は真実と真逆で貶めたい反日勢力によるもの!

ご葬儀で昭恵夫人が引用した弔辞「本人なりの春夏秋冬を過ごして最後、冬を迎えた。種をいっぱい撒いているので、それが芽吹くことでしょう」

 

 


「もし同志の皆が私のささやかな真心を感じ取り、志を受け継いでくれるなら私は未来に残す種子を残せた事になり実り豊かな人生だった事になる。同志諸君、このことをよく考えて欲しい。」

 

 

吉田松陰が死の直前に書いた『留魂録』は世界屈指の遺書文学

 松陰は、安政6(1859)年10月27日に、30歳の若さで幕府によって処刑されます。これは、有名な大老・井伊直弼による安政の大獄の一環として行われました。松陰は首を斬られ、誠にむごいことに下帯一枚で放り出されます。

 その時、弟子たちは、小塚原で放り出された松陰を引き取り、その亡骸に桂小五郎が自らの羽織を着せ、棺桶に入れて引っ張っていきました。その一人が伊藤俊輔こと後の伊藤博文でした。彼らは、こうした松陰の悲劇を目の当たりにしながら育っていくことになるのです。

 松陰は、死の直前に牢屋の中で、『留魂録』という有名な遺書を書きます。これは大変優れた遺書です。世界に遺書文学と言うべきカテゴリーを設けようとすれば、松陰の『留魂録』は、まさにその遺書文学の中でも屈指のものです。


 

松陰は最後、死ぬ間際になっても教育を続けていた


 松陰は、その中で、「自分はこのように若くして死ぬけれども、10代で死ぬ者にはそれなりの春夏秋冬があり、20代、30代で死ぬ者にもそれなりの春夏秋冬もある。また、それ以上生き延びたものにも春夏秋冬がある」というような有名な言葉を述べています。つまり、人間がどの歳においても、やるべきことをそれなりにやった。それは、自分の志や実際に成し得たことは乏しいかもしれないけれども、春から夏、秋、冬へと至っていく人の営みに似た経験を自分もした、と語っているのです。それが『留魂録』でした。

 そして、自分の説いた教えを、同志や弟子たちが継いでくれるとすれば、自分がまいた種は尽きない。そして、収穫が行われるとすれば、収穫の時期に恥じないものになるだろう、と記していました。

 『留魂録』の最後には、弟子たちに対して一人一人の適性や個性に合ったアドバイスをしています。松陰は死ぬ間際になっても教育をしているのです。

 その文章は、今日全て紹介できませんけれども、非常に高い精神性にあふれており、死の直前にこれだけのものを書ける人物がいたという点で、人々に感動を与えます。

 世界史の中にも、これほどの人物は他にいないでしょう。いずれ機会を捉えて、『留魂録』の全てではないにしても、一部を原文として示して、説明していきたいと思います。


 

●松陰の死が弟子たちに不退転の覚悟を与えた


 いずれにせよ、松下村塾は藩の主流ではなかったため、松陰の処刑が即座に長州藩の藩論に影響を与えたわけではありません。むしろ、松陰の死は、弟子たちに不退転の決意、覚悟を抱かせたという点で、幕末の歴史に大きな影響を及ぼしました。

 松陰が幕吏(幕府の役人)によって捕えられた時、弟子たちの中には、死ぬことを嫌がったり、松陰の二の舞になって幕府に捕らえられることを嫌がって、自分の考えを偽る者も出たと言われています。しかし、そうした人々も含めて、松陰の死は多くの感銘を呼び、むしろ、彼らに不退転の覚悟を与えることになったのです。

 この間も触れた、萩の乱において悲劇の死を遂げていく前原一誠は、当時病床にありましたが、こう述べています。

 「先師は忠義に死した。非常に正しい生き方をした。自分はその門人の一人である。師の遺志を奉じて、もし正しい生き方に準じないとするならば、一体自分には何の面目があるだろうか。自分には一体何の名誉があるだろうか。いや、ないだろう。そうなったときに、地下にある、泉下にあるわが師とまみえることはできないだろう」

 こうした決意のほどは、前原一誠に限らず、他の人にも共通していたとされています。すなわち、恩師である松陰の無念の死に接して、弟子たちは幕府に対して怒りを感じ、不信感を大いに募らせ、そして、必ずや松陰の遺志を継ごうとしたのです。つまり、こうした志や決意が、日本の変革を成し遂げようと心に誓うきっかけになったと言えるでしょう。

 今日は、松陰の死とその弟子たちについて語った次第です。

 

 

幕末動乱の時代に生を受け、「至誠」を貫き通し、勇敢に行動した吉田松陰。松下村塾で多くの志士を育て、松陰は29歳という若さで亡くなりますが、その“志”は塾生たちに受け継がれ、明治維新の原動力となりました。

「至誠而不動者未之有也」
(至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)

松陰の短くも激しい生涯を振り返ります。

 

萩市松本村に生まれ、兵学師範の吉田家を継ぐ

松陰は、萩藩士 杉 百合之助

すぎ ゆりのすけ

 の次男として生まれました。5歳の時に、藩の兵学師範を代々つとめていた吉田家の仮養子となりましたが、6歳のときに養父が急逝。松陰は吉田家を継ぎ、山鹿流兵学師範となるべく、叔父である玉木文之進の厳しい指導を受けました。

 

 

画像:玉木文之進旧宅

玉木文之進旧宅

玉木文之進はここに私塾「松下村塾」を創設し、近所の子弟を教育するとともに、松陰を一人前の兵学者へと育てあげました

兵学を修業、わずか11歳でお殿様に 御前講義

ごぜんこうぎ

 !

 

 

兵学は、用兵や戦術などを研究する学問で、江戸時代には儒学とならぶ武士の基礎学問でした。まだ幼かった松陰は周囲の人々から英才教育を受け、10歳のときに藩校明倫館の兵学師範として教壇に上がります。松陰は秀才と噂され、11歳のときには藩主・ 毛利敬親

もうりたかちか

 の御前で兵学講義をしました。敬親はいたく感激して松陰の才能を認め、その後、遊学許可など数々の便宜を図りました。
松陰は、19歳で兵学師範として独立し、藩校明倫館で本格的に教授を行いました。

 

 

画像:旧萩藩校明倫館

旧萩藩校明倫館

享保3年(1718)に5代藩主毛利吉元が毛利家家臣の子弟教育のために開いた藩校。それから約130年後、13代藩主毛利敬親の代に現在地に移転拡大し、15,184坪もの敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがありました。

現在は、槍・剣道場の「有備館」や遊泳術や水中騎馬が行われた「水練池」などが見学できます

歩いた距離は13,000km!全国遊歴の旅へ

欧米列強の存在を知り、日本の将来に強い危機感を覚えた松陰は、日本全国の遊学を決意します。当時、日本の沿岸には外国船が多く出没していたため、外国船に対する防備の状況を調べる必要があると思い、日本各地をまわることにしたのです。
21歳のときに藩から諸国修業を許され、九州を皮切りに全国を遊歴し、各地の知識人と交流しました。北は青森、南は長崎まで5年足らずの間に歩いた距離は13,000kmにもおよびました。

 

黒船来航! 海外密航を試みる

嘉永6年(1853)、米国のペリーが軍艦4隻とともに浦賀(神奈川県)に現れ、日本に開国を求めます。黒船を見て衝撃を受けた松陰は、直接自分の目で海外の実情を確かめたいと考えました。
翌年の安政元年(1854)、同志の金子重之助

かねこしげのすけ

とともに、下田(静岡県)に再来航したアメリカの軍艦に乗り込み、米国へ密航させてほしいと交渉しますが、失敗。二人は自首し、江戸の伝馬町獄

 

から萩の野山獄に投じられました。

 

  • 画像:松陰像画像:市内を一望できる高台

松陰誕生地にたたずむ松陰像

松陰誕生地は、団子岩という市内を一望できる高台にあり、そのそばに松陰と金子重之助の像が立っています

野山獄でも勉強、 たくさんの本を読む

海外渡航禁止令を犯した罪により、松陰は野山獄に投じられますが、学問に対する意欲は旺盛で、日々読書にいそしみました。野山獄にいた1年2ヶ月の間に読んだ書物は600冊以上にのぼります。
また、読書に励むかたわら他の囚人たちと交流し、松陰が「孟子」を講義する一方、俳諧や書道などそれぞれが得意とする分野を囚人たちから教わりました。その時、孟子の教えである「国家にとって最も大切なのは民である」との言葉に改めて感激し、その志と幕府の政策との落差に悲しみ、尊王攘夷思想に傾倒していきました。

画像:野山獄跡

野山獄跡

密航の罪で初め江戸・伝馬町獄に入れられましたが、後に故郷・萩にある野山獄へ移送され、ここで1年間ほど囚われの身となりました

松下村塾を継ぐ

安政2年(1855)松陰は獄を出て、実家である杉家に幽閉の身となりました。野山獄で行っていた獄中講義が評判となり、松陰のもとに、親類や近所の若者たちが松陰の教えを請いに集まってきました。そこで松陰は講義を始め、のちに松下村塾を主宰することになります。

  • 画像:幽囚室外観

  • 画像:幽囚室内観

吉田松陰幽囚ノ旧宅【世界遺産】

実家・杉家にある幽囚室。わずか3畳半あまりの部屋で、初めはここで家族や親族たちを相手に講義をしていましたが、近所の子どもが集まってくるようになったので、実家の物置小屋を改造し、叔父の始めた「松下村塾」の名を引き継ぎました。

ここでは、身分や階級にとらわれず誰でも学ぶことができ、時間割もない自由な雰囲気の中で、塾生が来れば昼夜を問わず授業が始まりました。松陰は塾生一人一人の個性を尊重し、その能力を伸ばすよう指導しました。また、書物の解釈にとどまらず、時事問題を題材にした活発な議論も行われました。
松下村塾で教えた期間はわずか1年あまりでしたが、90余名もの塾生たちを育て、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、やがて明治維新の原動力となる人材を育て上げました。

松下村塾での教育

第一に、人生において最も基本となる大切なことは「志」を立てることである。そのためには、まず私利私欲を除いた心で、一体自分がこの世で何ができるか、何をすべきか真剣に考えなさいと松陰は説きました。
また、講義においては、ただその意味や解釈にとらわれるのではなく、必ず世の中で起きている実際の問題と関連づけて、皆と議論するような形を採りました。塾内に「 飛耳長目

ひじちょうもく

 」※1 と題した新聞風の冊子を置いて自由に閲覧できるようにし、塾生が政事に関心を持つきっかけとなるようにしたのです。

 

 

  • 画像:松下村塾外観画像:松下村塾内観

松下村塾【世界遺産】

松下村塾の評判は萩じゅうに広まり、8畳1間の講義室だけでは手狭になったため、松陰みずから塾生たちとともに廃材をかき集めて建増しをし、現在の形となりました

幕府政治を批判、再び野山獄へ

松下村塾で若者の指導にあたっていた松陰のもとに、重大ニュースが飛び込んできました。それは、幕府が朝廷に無断で、日米修好通商条約に調印したことです。松陰は、幕府の外交政策を批判する意見書を藩に提出するなど、次第に言動がエスカレートしていきました。
藩の重役は、幕府に対して遠慮し、松陰の自由勝手な発言を許してはならないと判断します。そのため松陰は再び野山獄に入れられることになりました。

松陰は、外国の脅威に抗えない幕府や、日和見の藩に見切りをつけ、庶民の中から志のある者が立ち上がるべきだと「 草莽崛起

そうもうくっき

 」※2 を唱えます。松陰は自分の意見が通じないことに絶望しつつ、「至誠」は必ず人を動かすことができるとあきらめませんでした。

 

 

江戸で処刑される

徳川幕府大老の井伊直弼は「安政の大獄」で、幕府政治を批判する人々を取り締まります。松陰にもその疑いがかけられ、江戸へ送られることになりました。萩の町をはなれ、町はずれにある「涙松」にさしかかった時、松陰は名残惜しげに萩城下を眺め、一首の歌を詠みました。

かえらじと おも い さだ めし たび なれば 一入ひとしお ぬるる 涙松なみだまつ かな

画像:涙松跡

涙松跡

ここは萩のまちを見おろす丘の上で、市街地を望むことのできる最後の場所でした。人々はここで松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れを惜しんで涙し、また帰った時には嬉し涙を流したということから、いつしか「涙松」と呼ばれるようになりました

 

江戸へ送られた松陰は、幕府から取調べを受けます。そこでも松陰は自分の意見が正しいと信じ、幕府への批判を堂々と述べます。松陰は「至誠」を貫き通し、安政6年(1859)29歳という若さで刑場の露と消えました。
処刑される前日、松陰は遺書「 留魂録りゅうこんろく」を書き上げます。

 

 はたとひ 武蔵むさし の 野辺のべ に  ちぬとも 留置とどめお かまし 大和魂やまとだましい
 

 

「私が死んでも、国を思う私の気持ちだけは永久に残しておきたい」という歌から始まる留魂録は、門下生・塾生たちへの遺書であり、そこに込められた松陰の意思は志士たちに受け継がれ、やがて倒幕への原動力となりました。