政治家でもなんでもそうなのだが,私の中である人物が信頼に値するかどうかの判断基準として,「人間を第一に考えているか」というものがある。当たり前のことだろうと言われれば当たり前のことなので,もう少し敷衍して言うと,何かを決するに当たって,個々の人間とその生活以上に「大きな単位」を理由とする人間は信用できない,ということである。判断の第一の目的として個々の人間の幸福なり生命があるのでなければならず,国家なり企業なりといったものはそれらを実現ないし保障するための手段に過ぎないと考えるかどうか,そこに私にとっての人間の評価基準を置きたいと思っている。

 近年でこのあたりの考え方の違いによる対応の差が如実に出たものといえば,一昨年末に発生し,現在も世界の多くの国で収束の気配も見せていない新型コロナパンデミックの感染防止策であろう。周知のように,本邦ではなぞの検査抑制論というべき意見が感染確認当初から一部医療者を中心に声高に叫ばれ,収束に向けておそらく最も効果的であったはずの,感染初期段階による大量検査,陽性者の早期発見隔離による封じ込め策が取られることはなかった。結局,当然のごとく封じ込めに失敗した感染者を起点としたものと思われる市中感染爆発がこれまた当然の帰結として発生し,この記事を書いている現在それは未だ収まる気配も見えない。
 世界でも類を見ない「検査抑制論」なるものがなぜここまで蔓延ったのかは後の検証を待つしかないが,この抑制論の背景にあったのはおそらく,大量検査によって陽性者が大量に判明しても,医療機関に受け入れ病床がなく対応しきれないという(あやしげな)懸念であったろう。新型コロナを対象としたPCR検査ではほとんど起こりえないということが世界中の実例からも示されているにもかかわらず,広く発信され,現在も根深くくすぶっている「PCR検査を大規模に実施すれば,真の陽性患者を圧倒する数の偽陽性事例が発生してその対応のために医療が崩壊する」というデマなどは,その考え方をよく反映していると思われる。
 「抑制論」がいわゆるデマに基づく全くの不合理な考え方であるのは,ノーベル賞級の一流の研究者を中心に多くのマトモな学識者が指摘するところで,門外漢の私が今更付け加えるまでもないのだが,私がここで問題にしたいのは,「真の感染者を多少見逃すおそれがあっても医療資源を守るほうを優先すべきだ」という意見がなんとなく説得力を持ってしまう背景の思考,つまり,「個々の人間の命」よりも「医療資源」を守るほうが大事だという思考様式である。ここでようやく話が最初に戻ってくる。

 新型コロナウィルスは,昨年日本で感染者が見つかった時点で,致死性が高く,かりに死なないとしても罹患者のQOLを長期に亘って下げるおそれのあるウィルスであることは,先行して感染拡大していた中国等からの報告を見れば明らかであった。このようなウィルスに罹患したいと思う人間は一人もいないわけで,ふつうに人間のことを第一に考えて防疫計画を立てるのであれば,まず完全に抑え込む方法を探るはずである。そして,そのような方法として,すでに中国や韓国などで行われていた大量検査を通じて無症状者を含む陽性者を早期発見して隔離する方法は,無症状でも強い感染力を持つという,知られているこのウィルスの性質に鑑み極めて理想的なもののはずであった。しかるに,本邦が取ったのは正反対の検査抑制によるクラスター対策というもので,結果として当然のごとく無症状感染者を大量に見落として,市中に広く感染の種を撒くこととなった。
 それにしてもこんなふうに,初手から大量検査による完全抑え込みを目指さない,なんて考え方がなぜありえたのか,と考えるとき,「感染に脅かされる個々の人間の命」よりも「医療資源」のほうを重視した結果なのだろうと思い至るわけである。むろん彼らとても,「個々の人間の命」を軽視しているつもりはないであろう。彼らにとっては,「目先の感染者を一人も取りこぼさないことを目指すよりも,医療機関が大量に抱え込むことになる感染者(偽陽性も含む)によって医療資源が枯渇すればより多くの命が失われる」というように,自身の中での一応の理屈は立っているものと思われるし,いまも検査抑制が正しかったと考える人々は,そのように主張するであろう。しかしながら,このような考え方の問題は,「本当にその選択によってより多くの命が救われたのかどうか」を直接検証することが決してできない点にある。
 ある事態に直面して一つの選択をすることは,一度限りの歴史的事実であって,同じ条件で別の選択をすることは決してできない。Aの選択をした結果として10万人が死んだとして,「Bを選択していれば死者は1万人で済んでいた」と主張することも「Cを選択していれば100万人が死んでいただろう」と主張することも,論理的には不可能ではないが,いずれにせよ現実に生じた結果とそれら仮想の結果を実際に直接比較することは,選択しうる道は一つしかない以上不可能なことである。政策決定者が「仮想的な選択肢における100万人の死者」を理由に現実に発生した10万人の死者を正当化したとして,実際に死んだ10万人とその遺族が納得することなど決してあるまい。
 以上のようなことを考えるとき,結局のところ重要なのは,「まず人間を第一に考えて判断をしているか」というところに尽きると思われる。誰の命も取りこぼさないことは現実的には不可能であるとしても,「誰の命もとりこぼさない」という決意で事に臨んでいるか,ということである。そのような態度で今回のパンデミックに当たっていれば,「医療資源を守る」などという名目で検査を抑制するような愚かな真似は決してしなかったであろうし,守るはずだった「医療資源」が検査抑制の結果見逃された無症状感染者を起点とする感染爆発で崩壊,なんていう本末転倒の現状も避けられたように思われてならない(これはまあ,先に述べた仮定的事態と現実の結果との比較であるから真実はどこにあるとも言えないが,少なくとも「誰の命もとりこぼさない」という価値基準のもとで行動を選択していれば,生じた結果に対してつまらない後悔はせずに済んだということだけは言えそうである)。
 同じ話は「個々の労働者の保護をあまり求めると企業の自由な活動が損なわれて経済が上向かず,結果として却って全体として労働者の福祉も低下する」みたいな理屈で,労働者保護をどんどん骨抜きにしてきたここ20年くらいの流れにも指摘できるだろう。現実に企業に自由な活動を許すために派遣法改正やらで規制緩和を続けた結果が,そうしなかった場合よりも労働者の福祉を上昇させたかについて,結果が極めて懐疑的なものであることは,現在我々が目にしているとおりである。医療資源が生命を守るためにあるはずなように,企業がなんのためにあるべきかといえば,今のように一握りの資本家に異常な量の富の蓄積を許す手段としてではなく,それ以外の市民,つまり大部分の労働者の福祉向上のためにあるのでなければならないはずである(この国が弱肉強食のサバンナではなく,福祉国家であろうとするのならば,だが)。そうすると,まず第一に重要視されるべきは賃金,労働環境も含めた労働者の福祉であって,企業はこれを向上するための手段と考えるべきものである。「企業の自由が労働者の福祉を却って向上させる」なんていう眉唾の議論は速やかに棄却されるべきもので,そんなふうに人間を軽視し続けた結果が,儲けているのは派遣会社だけで当の労働者は10万円の手取りもない,みたいな今の惨状ではないのか。

 結局のところ,政策判断の最初に個々の人間を見る,っていう価値観はいかにも綺麗事のように写るが,実際には綺麗事でもなんでもない極めて現実的な判断基準であり,おそらくこれ以外にまともな政策の出発点というものはない。「個々の命や幸福よりも大きな何か(国家,企業,医療資源etc.)」を第一に見るような人間はおよそ信用してはならない,ということをこのコロナ禍を機に少しでも多くの人に認識して欲しいものである。