感動の王道というものがあるとすると、
演歌という形式は、
かなり磨きこまれたものの一つだと思います。
今日は、まず「津軽海峡冬景色」を覚書たいと思います。
まず、客観的な情景描写から始まります。
音形も三連符を主体とした点描風です。
「上野発の夜行列車降りたときから
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは誰も無口で
海鳴りだけを聞いている」
後半、寂しさを滲ませますが、情景描写のスタンスは崩しません。
でも、次のパートから、主観的な心情描写にだんだん移行します。
音形も、気持ちの乗せやすい長い音が多くなります。
「私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎みつめ
泣いていました」
いきなり主語が「私」主観です。
そして、その気持ちが抑えきれなくなって、
情感があふれ出し、あぁを1小節かけてこぶしを回します。
「あぁ
津軽海峡冬景色」
もはや、嗚咽です。それがこぶしです。
津軽海峡冬景色の荒涼は、
彼女の心ですが、それはここでは説明しません。
それが却って、聴くものの感涙を誘います。
客観→主観→情感
と、だんだん迫ってくることで、
そして、ふいに訪れる嗚咽が、ぐっと来ます。
まさに感動の王道だと思うのです。
この
「客観→主観→情感」パターン
もうひとつ見てみましょう。
「北の宿から」です。
この歌詞は手紙形式です。
始めの二行は、客観的に手紙の常套を踏んでいます。
音形は8分音符中心です。
「あなた変わりは無いですか
日ごと寒さがつのります」
次の二行で、主語が「私」になります。主観です。
音形は、まだ淡々と8分音符で刻みます。
「着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます」
この寒さは、心の寒さでしょう。
そして、こらえきれぬ寒さが、
あふれでる情感となって全音符中心の嗚咽になります。
「女心の未練でしょう
あなた恋しい 北の宿」
客観→気持ちを抑えて抑えて、
主観→でも、気持ちが零れ落ち
情感→ついにあふれ出て嗚咽する
演歌って、やっぱり王道ですね。
演歌という形式は、
かなり磨きこまれたものの一つだと思います。
今日は、まず「津軽海峡冬景色」を覚書たいと思います。
まず、客観的な情景描写から始まります。
音形も三連符を主体とした点描風です。
「上野発の夜行列車降りたときから
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは誰も無口で
海鳴りだけを聞いている」
後半、寂しさを滲ませますが、情景描写のスタンスは崩しません。
でも、次のパートから、主観的な心情描写にだんだん移行します。
音形も、気持ちの乗せやすい長い音が多くなります。
「私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎みつめ
泣いていました」
いきなり主語が「私」主観です。
そして、その気持ちが抑えきれなくなって、
情感があふれ出し、あぁを1小節かけてこぶしを回します。
「あぁ
津軽海峡冬景色」
もはや、嗚咽です。それがこぶしです。
津軽海峡冬景色の荒涼は、
彼女の心ですが、それはここでは説明しません。
それが却って、聴くものの感涙を誘います。
客観→主観→情感
と、だんだん迫ってくることで、
そして、ふいに訪れる嗚咽が、ぐっと来ます。
まさに感動の王道だと思うのです。
この
「客観→主観→情感」パターン
もうひとつ見てみましょう。
「北の宿から」です。
この歌詞は手紙形式です。
始めの二行は、客観的に手紙の常套を踏んでいます。
音形は8分音符中心です。
「あなた変わりは無いですか
日ごと寒さがつのります」
次の二行で、主語が「私」になります。主観です。
音形は、まだ淡々と8分音符で刻みます。
「着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます」
この寒さは、心の寒さでしょう。
そして、こらえきれぬ寒さが、
あふれでる情感となって全音符中心の嗚咽になります。
「女心の未練でしょう
あなた恋しい 北の宿」
客観→気持ちを抑えて抑えて、
主観→でも、気持ちが零れ落ち
情感→ついにあふれ出て嗚咽する
演歌って、やっぱり王道ですね。