6/28に、ここにアップしました「CMは肉体に何をしたか②」の続きです。
オリジナルの掲載は2002年日韓大会の年に「OPUS」という芸術系雑誌に寄稿したものです。
第二章
「今の僕、壊れそうなんです」ショッキングな言葉が口をついた。だが清水は、邪心や邪念のない高僧のような穏やかな表情を崩すことなく言葉をつなぐ。「今の状況って、自分を試す意味では凄く面白いと思うんですよ。精神状態が不安定な中、どこまで自分をコントロールしきれるのかな、という興味ですよね。」(吉井妙子「神の肉体 清水宏保」)
ヤキソバと馬術の誘惑、そして自分をオっぴろげることの悦楽。
壊れそうな自分。面白い。興味。清水宏保の深層心理は、どこに行こうとしてるのでしょうか。
オリンピックを約一ヶ月後に控えて、壊れる寸前の肉体を抱えていることは現実の問題として大変なことだしネガティブな要素です。が、現実と別の次元で、より根源的な次元で清水は「凄く面白い」「興味がある」と語っています。取材で清水からこの言葉を聞かされた「神の肉体」の著者は、あえてポジティブに振る舞うことの「押し隠した苦しみ」を感じているのですが、むしろ僕は、この言葉「面白い」「興味がある」は額面通りに受け止めていいんじゃないかなあ、と思っています。自分の肉体がどう変化していくかは誰であれアスリートであればゼッタイに興味あるだろうし、限界の向こう側を見たいという純粋で根源的な欲望は人間なら誰だって常に持っていると思う。そんなスーパー・ラディカルな欲望が当時の清水を突き動かしたと考える方が僕には理解しやすかったのです。
それにしても清水宏保の肉体拡張への意志は徹底的で、その成果は感動的ですらあります。「厳しいトレーニングをやっていると、なんか動物に近くなるような感覚があるんですよね。もしかしたら僕らのやっているトレーニングというのは、後天的に埋め込まれた価値観を削ぎ落とす作業なのかも知れない」女優でトライアスリートでもあるリサ・ステッグマイヤーは雑誌のインタビューに答えて「走り終えた後は、不思議なくらい物欲がなくなっていますね」と語っていました。この感覚は清水の言う「後天的な価値観を削ぎ落とす」感覚と共通するものがあるのかもしれません。そうやって感覚は研ぎ澄まされ、いわゆる感覚の純化という以上の身体性の変質を体験する。清水は筋繊維の一本一本を自覚すると言います。「深腹筋など、人間にはまだまだ知覚されない筋肉があると清水はいう。その感覚のない筋肉を清水特有の鍛え方で目覚めさせ、それをパワーやスピード。テクニックに転化させている。今季も、腸の裏側にある新たな筋肉を目覚めさせるトレーニングをしていた」清水は、筋繊維一本一本の自覚どころか、その能力の伸長をも自在にしていたことになる。なんて超根源的な欲望の実現であろうか。結果的には、その事が彼の勝負に影を落とすことになるわけだけど、勝ち負けを超えて得られる何かがあったんじゃないかなあ、と邪知してしまう。
清水宏保は究極の肉体を作り上げ、その作り上げた究極の肉体によって自らの身体を傷つけることになりました。それが悲劇であるか、必然であるか、単に何かの過程であるかを断じることは情緒的過ぎるでしょう。ただ思うのは、人間の限界、物理的な意味での限界をはるかに超えた肉体と神経系がダイレクトに繋がることができたならば…。それが馬術の誘惑の本質に他なりません。
馬に初めて乗った人間は、何を獲得したか。講談社新書「馬の世界史」の中で著者木村凌ニ氏は「速度」とズバリ断じています。それまで歩くことと、せいぜい走ること時速でいえばせいぜい4Kmと12Kmとの間で動いてきた人間が、突然時速60Kmを超える世界を知ることになるのです。その瞬間、人は「速度」という新しい概念と出会い肉体化し欲望するのです。4Kmと12Kmとの間での移動は、おおざっぱに言うとまあ「速い」と「遅い」ぐらいで「速度」という概念を持ち込んで抽象化するほどのこともなかったに違い在りません。それに比べて良く調教された馬を手にいれた人間は大きな区分で言っても常歩、速歩、駈歩、襲歩の四歩様、細かく言うとそれぞれの歩様に収縮、尋常、中間、伸長と三歩様ずつありますから(襲歩は一歩様のみだと思います、たぶん。常歩には他に自由常歩という歩様があります)14種類のギア・チェンジを突然人は持ったのです。(さらに細かく言うとそれぞれの歩様に信地での速度ゼロの運動や後退があります)速度で言えば後退駈歩のマイナス10Kmから襲歩の70Kmまでの可変域を獲得したことになります。これって、ほんと、ものすごいことだと思うんですよ。
馬に乗った時の視線の高さも重要です。人の中に超根源的に巨人化の欲望があるとするなら、建物や乗り物に頼らずに、自分の制御できる範囲でものすごく自分が大きくなれるものと出会えた喜び、それが「馬に乗る」という行為だったのです。
乃木将軍が日露戦争の戦後処理でロシア側のステッセル将軍との会談の際、馬を降りず鞍上から謁見したのも「大きな自分」を演出し相手を威嚇するためだ、と言われています。大きくて強い自分が、深くリアルに実感できる体験、それが馬に乗ることの意味なのです。
RDA JAPANは、「イギリスのRDAの理念に沿い、日本国内において心身に障害あるいはストレスを持っている人に乗馬や馬車操作の機会を提供し、健康や暮らしの質の向上をはかり、また、それを支援すること」を目的としている特定非営利団体です。その活動の一貫として行われた「馬とリハビリテーション講習会」で興味深い指摘がありました。(雑誌「乗馬ライフ」2002年2月号より)障害者乗馬の効用のひとつに、「歩行の再教育がある」と言うのです。原文を引くと「一定でなかったりアンバランスな歩行をする人は、骨盤を水平にし、正常な歩行パターンと類似している馬の歩行(正常で左右対称の歩き方)を体験することによって、自分の歩行パターンを向上させることができる。」つまり、身障者までが健常者の、そしてそれ以上の歩行体験を根源的に体験できる、という性質が乗馬にはあるわけです。そこが移動手段として自動車等と徹底的に違うところですね。
余談ですが、私は自転車の立ち漕ぎが大好きです。ちょうど人が走っている時の姿勢と筋肉の使い方で、駈足の約2倍以上の速度で走行することができるのですから。この感覚は乗馬による走行体験と通じる部分があるんじゃないかしらん。馬体の動き、馬の腰の揺れは障害者乗馬の項でも述べたように人の歩様の延長線上にあります。その状態で時速70Kmを体験するということは、自分の脚で時速70Kmを走る体験に極めて近いと言えます。これは、壮絶な体験です。
2002年春シーズンに記録されたJRA競馬のコースレコード
2月24日 中山 1800 中山記念 1分45秒4 トウカイポイント
4月13日 阪神 1600 マイラーズC 1分32秒6 ミレニアムバイオ
4月28日 京都 1600(内) あやめ賞 1分33秒4 トゥルーサーパス
さて馬術に長じれば長じるほど馬の身体能力が直接自分の感覚、神経と繋がる感じが実感できることは想像に難くないでしょう。障害馬術のレッスンでインストラクターが「障害に吸い込まれるイメージではなく、障害を引き寄せるイメージで」というアドバイスをすることがあります。騎手が新たなイメージを持つだけで明らかに馬の身振りが変化します。イメージひとつで500Kgにもなる馬匹の運動が変化するとは!!これはすごい快感です。馬術の境地を「人馬一体」と表現します。自分と馬がひとつになること、まるで馬の筋肉と鞍上の騎手の神経がダイレクトにつながったかのような境地、それが人馬一体ということでしょう。人馬一体のヨロコビをコーランは「地上の楽園は鞍上にあり」と表現しているそうです。馬にさえ乗っていれば、そこが天国!!!
夫はサッカーを見ているあいだはそれに没頭するから、彼に気づかれずにそっと姿を消して、何時間も馬に乗っていられるのは無上のよろこびだった。夫を一人残したままこんなに時間がたってしまった、しかたがないが帰らなくては、と心配する必要もない……私にとってワールドカップはたまらなく幸せな時間だあった。(メリッサ・H・ピアソン著「馬の物語」より)
日清ヤキソバU.F.O.のCM「夜明け篇」と「お湯を求めて篇」の真の狙いは、実はそのあたり「人間の限界、物理的な意味での限界をはるかに超えた肉体と神経系がダイレクトに繋がっているヨロコビの表現」にあると睨んでいます。このCM、ご存知の方も多いと思いますが、広末涼子が上半身は人間、下半身は馬のケンタウルスに扮する、なかなかショッキングなものです。人馬一体、馬の筋肉と鞍上の騎手の神経がダイレクトにつながったような境地を表現するモチーフとしてこれほどふさわしいものはありません。
日清のHPによると「広大なUFOの世界を表現するため、とある惑星の草原で生きる「ウマい族」を設定しました。広末さんは、「ウマい族」の族長役として子分を引き連れ雄大な自然と音楽の流れる中を豪快かつ逞しい演技を披露してくれました。その焼そばウマい。それをお伝えしたくて企画したCMです」とのこと。
キャッチフレーズは「ウマい」で、馬。ダジャレ。先にご紹介したリーバイスのCMも「TWISTED TO FIT」(フィットするためのツイスト)で、ひねるカラダ。ダジャレ。スーパー・ラディカル系快感をテーマにしたCMは、なんでダジャレなんだろう。たぶん言語化できない根源的で深層的な欲望をあえて言語化し正当化するために、あるいは言語化できないことを正当化するために言い訳のようにダジャレを使っているのではないでしょうか。これは企画者自身も気付いてない可能性があります。
日清のHPによると企画意図は「広末さんの顔のアップから、カメラが引いていくと、その服装は皮一枚。しかも、なななんと!下半身はウマなんです。これもみんなその焼そばウマいを表現するためのもの」と書いています。これは企画者の商品へのリップサービスでもなく、苦し紛れのでっちあげでもなく、まあ、本当にそういうつもりだったんでしょうけれども本質はより深い超根源的な快感が身体性というブリッジで食欲と結びついたもの、と考える方が鑑賞する態度としては楽しい/正しいと思うのですが、いかがでしょうか。いずれにしても、これからダジャレのCMを目にしたら要チェック、ということで…。
馬に関わる、もうひとつの広告。馬具商としてのエルメスジャポンの雑誌広告のキャッチフレーズは、「その快適さ、開放感」。
先述の書物「馬の世界史」にならって言うと、有史以前にさかのぼる馬と人との出会いの瞬間がスーパー・ラディカルな欲望と人が出会った最古の瞬間と言えます。その時肉体は速度と身体性の拡張、開放感とともにまた別の大切な概念と出会います。エルメスジャポンの齋藤峰明社長の言葉を引きたいと思います。
たくさんの人がパリに行かれますが、パリの街をよく見ていただくと、馬と馬車を中心に考えてつくられた都市だということが分かります。例えば、中央郵便局には大きな厩舎がありました。古い館の中庭は馬車を駐車しておけるようになっていたのが分かります。
人間の文明がこのように大きく発展してきたということには、馬が大きくかかわっていましす。交通機関が馬から車に変わり、戦争に馬を使わなくなったからといって、馬をないがしろにはできません。19世紀のパリには馬が8万頭いました。馬の美しさを競い合うことで、人々はエレガンスを追求していたのですね。エルメスはそういう仕事をやっていた。エレガントなノウハウを持っていたということでしょう。(中略)馬が身近にいる生活が、すなわち豊かな生活だと私は考えます。だから、日本の馬術界がもっと盛んになること、すなわち日本が豊かになることだと思います。(雑誌「馬術情報」2002年6月号より)
上記の発言には本稿にとって重要な点が二つ含まれています。一つは都市が馬と出会うことによって都市自体がスーパー・ラディカルな変化を遂げた、という指摘。もう一つは人がエレガンスという価値に覚醒する契機が馬との出会いであった可能性がある、という指摘。古代においてエレガンスの発見と覚醒は生きる意味さえ変えるような身体深部にズシリと刺さるものだったに違いありません。いずれにしても馬がスーパー・ラディカルな進化に果たしてきた役割の大きさと可能性を示唆した発言と私には読めたのです。
さて、そろそろ名馬術家の発言から本稿のテーマに関わる言葉を、ある種の結論に向けて引いてみたいと思います。
牧場で自由に走っている馬を見たことのない人はいないであろう。総ての運動において如何に柔軟であり、また如何に軽快であることか!しかし、この馬に鞍を置きハミをつけて乗り、騎手の思い通りにしようとすれば、如何にその姿の変わることか!自由な状態においては大地を軽々と飛び回っていた馬が、騎手の脚の間では苦しそうに這いずりまわり止まってしまうのである。それは何故だろうか?自由な馬は自分の力の絶対的な支配者であり、自分の身体は自分の思い通りになるので、我々が感嘆するほどの非常に優雅な運動をするのである。しかし人に乗られるや否や窮屈を感じ、馬の自由は麻痺し、自分の意思は放棄させられるが、未だ騎手の意思は理解できずにいるのである。(フランツァ・ボーシェー原著「ボーシェー氏の馬術」より)この美しい文章の「馬」を「人」に、「騎手」を「社会」に読み替えれば、そのまま、なぜ今スーパー・ラディカルなのか、という詩的なまでに的確な解説になるのではないでしょうか。
本稿執筆中にフランスはル・マンで行われたCSI-Cグランプリという馬術競技で日本の桝井俊樹選手優勝のニュースが飛びこんできました。スゴイ、スゴイ、スゴイ。ある意味ではサッカーW杯決勝リーグ出場よりも価値があることかもしれません。マジで鳥肌が立ちました。この鳥肌が立つという感覚も、スーパー・ラディカルにおおいに関係あり、なのですが…。
肉体拡張欲求が拡大する可能性のある市場
〇陸上競技、水泳、自転車等の競技系スポーツ市場
〇馬術、体操競技、ダンス等の表現系スポーツ市場
〇その他Xスポーツ全般の市場
〇自動車、バイク関連市場
〇都市計画事業市場
〇旅行関連市場
〇食事関連市場
〇エステティック系市場および整形外科系市場
〇アパレル系市場
肉体拡張欲求が拡大する可能性のある表現領域
〇音楽、特に電子音楽
〇肉体の鍛錬が表現の深度に直結する舞踏等の表現形式
〇表現形式としてのコンピュータゲーム
〇小説のモチーフとして、またドキュメンタリーの新しい在り方として
〇アニメのモチーフ、および設定として
〇バーチャル体験としての映画のアイデア
〇フランスのジンガロ座に代表される動物と人間が競演する表現形式
〇なんらかの器具を用いるすべての表現形式
第三章
米国人の80%は自分の生活を簡素化する方法を探り、78%はストレスを減らしたいと考えている。300万人の米国人が、ヨガや太極拳などの東洋武術を修行することで積極的に静穏とさらなる健康を求めているのだ。(マーク・コーベ著「エモーショナル・ブランディング」より)
欲望の三つの発展段階、または仮面ライダー龍騎が戦う理由。
消費の契機となる欲望の在り様には3つの発展段階があると仮説してみます。最も根源的な欲望は「生存」への欲望です。生きるために必要最低限の欲望ですね。食欲、性欲、睡眠欲等がこれにあたります。これを「ラディカル」な欲望と呼びましょう。
とりあえず今日明日生きるのに困らない分の「物」が保証されると、人は自分が社会的にどんな意味を持っているのか、ということに興味を持ち始めます。見栄とか地位とか、ある種の人々にとってはどんな汚い手を使ってでも手に入れたい、というぐらい強い欲望です。意味ある存在であると他者から見られたい、そのためにブランド物を身にまとったり、ネット・サーフィンで情報を貪ったりするようになります。これを「ソーシャル」な欲望と呼ぶことにします。
少衆の時代、と言われた昔がありました。消費傾向が個人化、個性化していったと言われた時代です。それは真の個性化だったのでしょうか。ある商品が個性的であるためには、その商品が「個性的であること」を社会に十分に認知されている必要がありました。「あのブランドは一般に個性的と言われている、だからあのブランドの服を着ている人は個性的だ」という感じですね。(そのことをメッセージの対象としたコピーも目立ちました。例えば「趣味のいい悪趣味です。ジャン・ポール・ゴルチェ」)逆に真の意味で個性的すぎると商品やブランドの意味が認識されず個性的とは受け取られないまま無視されるかせいぜい変わり者扱いされる、というのが消費社会における「個性」の本質であり構造だと思うんです。前衛芸術が一般の社会からどう見られているか(あるいは見られていないか)という構図ととてもよく似ています。真の個性は前衛芸術みたいなものなのです。ソーシャルな価値、ソーシャルな欲望とは「世間あっての個性」、「他人ありきの自分」。どうありたいかではなく、どう見られたいか、という欲求。意味、記号、情報、地位への希求。
さて、あんなに欲しかった「意味」も「情報」もITの進歩によって自由に手に入るようになると価値は下がってしまいます。ソーシャルな欲望は、なんとなく冷え込んでいます。(今の不況と関係がありそうです。ITが不況脱出の決定打にならない感じとか)そんな時、人は本能的に次の欲望をあらわにしてくる。超根源的=スーパー・ラディカルな欲望は社会的意味とは何ら関わりません。それはただ、あらわになるのです。それはより内在的で、もちろん文字通り超根源的で、深い身体性の「拡張」「覚醒」を欲っする気持ち。たとえば中世のサッカーに興じた人々、後藤健生氏の言う肉体的接触を楽しみたいだけのためにサッカーをした人々は、自分のその欲望に気付いていなかったと思うんです。一応、勝ち負け、一応、村の名誉、とか言って、でも肉体を突き動かしていたのは社会的意味とは関わらない(だからこそ自覚的である必要のない)暴徒一歩手前の肉体接触というスーパー・ラディカルな欲望だったと言うことができるでしょう。
深い身体性の「拡張」「覚醒」を欲っする気持ち。そのもう一つは馬との出会い、馬との暮らし。「くらくらするような力の実感。合図をすればすぐに走り出している。自分の意思で起こしたように風が吹き、身体の下の力強い生きものは従順で、走れと命じれば走り出す。リズミカルに上下するその動きに身をまかせていると、たがいが別々のものではなく一つになったように感じる。そして集中力。あっという間に禅の悟りに達したかのよう」な身体の深部の変化への希求、欲望、幸福感。(メリッサ・H・ピアソン著「馬の物語」より)これらの獲得に向けた純粋な思いがスーパー・ラディカルのもうひとつの原点を形作っていると言うことができるでしょう。
なぜ社会が高度化するにつれ、人はスーパー・ラディカルな欲望を抱くのか。これについては斎藤隆氏が興味深い指摘をしています。
「暴力的な身体から従順な肉体へ」という方向性が、モダンな社会におけるからだの変化の主流だとされている。(中略)ミシェル・フーコーもまた、監視や規律訓練を通じて自分自身を従順で生産的な身体へとつくりかえさせるモダンなシステムを批判している。(中略)ヨーガや禅など身体を使うワークショップの問題意識は、自然と切り離されて生命力を失い、孤立し、硬く閉じられ、他者とコミュニケーションしにくくなってしまっている身体をどう開いていくのかというものであった。(「NHKブックス 身体感覚を取り戻す」より)
つまり社会システムにがんじがらめにされた肉体を覚醒させ解放したい欲求が現代人には奥深く存在するのではないか、という論ですね。これは後藤健生氏が論じているサッカーの起源とも深く関わっています。サッカーは、その始まりの時には実は勝ち負けは関係なかった、ただ人は人とぶつかりあいたかったのだ、という論です。これによって中世という暗黒なシステムにがんじがらめにされた肉体を覚醒させ解放したいと肉体の意志が欲望したのではないでしょうか。
そう、スーパー・ラディカルとは肉体と欲望の根源的な覚醒でもあるのです。キリン・チャレンジカップのTV放映タイトルバックはサポーターが次々に目を開いていく、というもの。まさに覚醒がテーマ。このタイトルバックの作者は直感的に「サッカーの本質は自由と覚醒だ」と喝破していた、と見るのは穿ちすぎでしょうか。
そしてふたたびエルメスジャポンの雑誌広告のキャッチフレーズ、「その快適さ、開放感」。このコピーの作者は馬術の持つ身体拡張性とその結果としての覚醒と解放/開放を自覚していたと見ても的外れではないはずです。
消費社会の重要なテーマのひとつに、ブランド論があります。これをスーパー・ラディカルの視点から俯瞰してみましょう。今、各メーカーが最も重視し大切に育て上げようとしているのがブランド資産。全く同じ性能を持った全く同じ商品でもB社のブランドでは500円でしか売れずA社のブランドでは1000円で売れたとすると、A社ブランドは相対的に差額500円の価値を持つと考えられます。ブランドは、この時@500円を産み出す資産なのです。一般に物性価値と人格価値の両面からブランドは形作られると言われています。全社はモノとしての良さ、品質の高さ、後者はモノの意味、社会的価値を指しています。今まで見てきたように消費が肉体欲求により深く根ざしたものになってくると、ブランドの構造自体が変わる可能性があります。物性価値は肉体欲求の面的価値(普遍性)へ置き換えられ、人格価値は肉体欲求の深度(個性)へ置き換えられる可能性があるでしょう。社会的地位をより強く象徴するメルセデスベンツ・ブランドと、肉体的欲求をより深く追求するポルシェ・ブランドの意味と価値が逆転する可能性すらあるかもしれません。その意味においてメルセデスベンツのブランド価値がソーシャル・バリューであるのに対して、ポルシェのブランド価値は典型的にスーパー・ラディカルです。
ポルシェのブランド価値について考えながら石井淳蔵氏の著作「ブランド 価値の構造」を眺めていたら、ちょうどポルシェのブランド価値(=ブランドアイデンティティ)について触れているくだりがみつかりました。本論とも大いに関係のある叙述です。
ポルシェのコアとなるアイデンティティは、「速い車」ではない(これは実際、そのコミ ュニケーションのテーマであり、その製品の諸属性のひとつである)。シンボル的には、ポルシェのコアとなるアイデンティティは「ヒーロー」である。それも、現代の意味でのヒーローではなく、理想的な意味でのヒーローである。
ヒーロー。理想的で古典的なヒーローは筋骨隆々で運動能力に優れている。時に不死身ですらあり、鳥のごとく飛んだり、蜘蛛のごとく重力を操ったりする。その意味で身体拡張感覚を本質的、根源的に持った存在と言うことができるでしょう。スパイダーマンは、自己の肉体の変質を無邪気なまでに喜んでいて、その喜びをカラダいっぱいで表現していました。おかげで叔父さんと約束していたペンキ塗りをすっぽかす始末。
映画スパイダーマンの中で、主人公が社会との関わりを模索するくだりがあります。自分が活躍するシーンを自分で写真に撮って新聞社に売り込み、現金を手に入れると同時に「正義の味方」として社会的に認知された存在になろうとしているわけです。ところが敵の陰謀、マスコミの悪意等により社会的存在であることは自分にとって無意味であると悟り、社会との関係を自ら断ち切っていきます。その時スパイダーマンはソーシャルなヒーローから真のスーパー・ラディカルなヒーローとなるわけです。
純粋に勧善懲悪のヒーロー、たとえばウルトラマンはラディカルなヒーローです。人類の「生存」という根源的な価値のために戦うわけですから。
旧仮面ライダーはソーシャルなヒーローでした。望まない改造手術を施され社会からの阻害に常に悩み続けるヒーローの、戦う理由のひとつは社会的アイデンティティの獲得です。FBIと共闘路線を採ったりライダー少年隊を組織してしまうあたり、社会的存在たろうとする仮面ライダーの気持ちが浮き彫りになっています。
同じ仮面ライダーでも「龍騎」はスーパー・ラディカルです。怪物も登場しますが、ストーリーの興味の中心は怪物を倒すことにはありません。怪物を倒すたびに仮面ライダーの肉体に変化が起こる、さらに他の仮面ライダーを倒すことで圧倒的な力を手に入れられる、という設定なのです。何人もの仮面ライダーが登場しては、その超根源的な変化を競い合うという構造も面白くて、もうこうなると「生存」も「社会」も戦闘の動機にはなっていなくて、純粋なまでに肉体の深層部から湧き上がる、自分でも説明のつかない何かのために戦う仮面ライダー達。自分を変えたい欲求のために戦うスーパーヒーロー。スーパー・ラディカルですね。
キアヌ・リーブスがマトリックスで演じたように、私たちの真の肉体性は仮想空間にからめとられているかもしれません。ウィレム・デフォーがスパイダーマンの中でつぶやいたように私たちの肉体はその可能性の何十分の一しか使われていないのかもしれません。仮想空間のような社会規範にしばられた肉体、何十分の一しか使われていない身体性を遺憾無く発揮する喜び、それがとりもなおさずスーパー・ラディカルなのです。それは先祖帰りするものであってはならない。創造的で前向きな経済活動に方向付けられねば私たちは単に動物的存在に戻るだけになってしまう。けれども秩序を持ちこむことは反動的だ。さて、どうしようか。そこで最も有効で重要な武器になりうるのが芸術やCM等の表現活動だ、と思います。
表現論としてのスーパー・ラディカル論、またはセザンヌから僕達が学ぶこと
肉体的な超根源的変質の喜びばかり論じて来ましたが、それだけがスーパー・ラディカルだと思われるのは少し私の意図とは違うんです。映画を見ること、音楽を聴くこと、絵画を鑑賞すること等で単純に「感動」するという一過性な感情を体験する以外に、確実に自らの内面の、しかも奥深い部分が化学変化を起こしていると実感すること。それがスーパー・ラディカルな体験だと定義したい。そしてそこに向けて、そんな結果を得るために、どんな表現手法、テーマ、コンセプトがありうるのか、という模索がスーパーラディカル論としての表現論になるはずです。
「普通、映画は観て面白いと思っても、自分なりの消化作業が終わると心体が新たな代謝を欲するように、また次の別の映画へと気分が移ろってゆく。通例の移ろい(ルーティン・ワーク)が許されず、二日酔い三日酔いでいつまでも偏頭痛が抜けない、そんな感じなのだ」と古舘伊知郎はある映画について雑誌「frau」に書いている。まさに映画という表現物により導かれたスーパー・ラディカルな体験の描写と読むことができるでしょう。
スポーツが大衆化した20世紀初頭、スポーツのもつスーパー・ラディカル効果を真っ先に予感し表現として定着したのが当時の現代作曲家達でした。ドビュッシーはテニスをテーマに「遊戯」というバレエ作品を書き、サティはその名も「スポーツと気紛れ」という組曲を書き、オネゲルはまんま「ラグビー」という作品を書きました。音楽的な体験と肉体的体験としてのスポーツとの共通点、すなわちスーパー・ラディカルな変化の快感を直感的に感じたのだ、と思います。現代音楽の最も成功した手法のひとつミニマル・ミュージック(同形のモチーフが延々と繰り返されて麻薬的効果をもたらす気持ちのいい音楽。ロックにも通じるところが多い)も、脳ではなく肉体に直接語りかけ、その深部での変化を楽しむという鑑賞法を考えると、スーパー・ラディカル・コンセプトによる表現事例として見ることも可能でしょう。
身体性超越欲求を、CM制作者の立場から見るとどうなるか、言いかえるとスーパー・ラディカルな欲望は消費への貢献というビジネス的モチベーション以外に表現の契機にいかになりうるのか。このテーマを考える上で重要なヒントを有名な画家セザンヌは次のように語っています。「私は画家は顔を解釈するものだと考えている。画家は愚か者ではないのだ」そうなんです。表現者は顔(=肉体)を解釈することに強烈な芸術的モチベーション、表現欲求を持っている、と一般的に考えていいでしょう。ピカソしかりジム・キャリーしかり。そうでなければ「愚か者」になってしまう、とすらセザンヌは言っています。「肉体の新しい解釈」、これこそがスーパー・ラディカルの表現コンセプトではないでしょうか。
CM表現は、その時代の欲望の鏡です。私たちは優れたCMによって自らの欲望を知り、欲望の矛先の変化を知ることになるのです。物欲から情報欲へ、そしてより根源的な身体欲へ。何を持っているか、から、どう見られたいかへ、そしてより本質的に「どうありたいか」への欲望の旅。メルロ=ポンティの言葉を借りれば「自由」への希求。そんな段階に、今の私たちはいるのかもしれません。
私たち表現者は、今こそ肉体の声に真摯に耳を傾け、より深い、より本質的な欲望を嗅ぎ取り、新しい「自由」を提示すること。従来の常識が根源的と形容する衣食住の欲望を超えるスーパー・ラディカルな欲望を具現化すること。それが新しいマーケットを産み出し、新しい表現を産み出す契機になると信じます。未来は私たちの肉体の中で産声をあげているのです。
オリジナルの掲載は2002年日韓大会の年に「OPUS」という芸術系雑誌に寄稿したものです。
第二章
「今の僕、壊れそうなんです」ショッキングな言葉が口をついた。だが清水は、邪心や邪念のない高僧のような穏やかな表情を崩すことなく言葉をつなぐ。「今の状況って、自分を試す意味では凄く面白いと思うんですよ。精神状態が不安定な中、どこまで自分をコントロールしきれるのかな、という興味ですよね。」(吉井妙子「神の肉体 清水宏保」)
ヤキソバと馬術の誘惑、そして自分をオっぴろげることの悦楽。
壊れそうな自分。面白い。興味。清水宏保の深層心理は、どこに行こうとしてるのでしょうか。
オリンピックを約一ヶ月後に控えて、壊れる寸前の肉体を抱えていることは現実の問題として大変なことだしネガティブな要素です。が、現実と別の次元で、より根源的な次元で清水は「凄く面白い」「興味がある」と語っています。取材で清水からこの言葉を聞かされた「神の肉体」の著者は、あえてポジティブに振る舞うことの「押し隠した苦しみ」を感じているのですが、むしろ僕は、この言葉「面白い」「興味がある」は額面通りに受け止めていいんじゃないかなあ、と思っています。自分の肉体がどう変化していくかは誰であれアスリートであればゼッタイに興味あるだろうし、限界の向こう側を見たいという純粋で根源的な欲望は人間なら誰だって常に持っていると思う。そんなスーパー・ラディカルな欲望が当時の清水を突き動かしたと考える方が僕には理解しやすかったのです。
それにしても清水宏保の肉体拡張への意志は徹底的で、その成果は感動的ですらあります。「厳しいトレーニングをやっていると、なんか動物に近くなるような感覚があるんですよね。もしかしたら僕らのやっているトレーニングというのは、後天的に埋め込まれた価値観を削ぎ落とす作業なのかも知れない」女優でトライアスリートでもあるリサ・ステッグマイヤーは雑誌のインタビューに答えて「走り終えた後は、不思議なくらい物欲がなくなっていますね」と語っていました。この感覚は清水の言う「後天的な価値観を削ぎ落とす」感覚と共通するものがあるのかもしれません。そうやって感覚は研ぎ澄まされ、いわゆる感覚の純化という以上の身体性の変質を体験する。清水は筋繊維の一本一本を自覚すると言います。「深腹筋など、人間にはまだまだ知覚されない筋肉があると清水はいう。その感覚のない筋肉を清水特有の鍛え方で目覚めさせ、それをパワーやスピード。テクニックに転化させている。今季も、腸の裏側にある新たな筋肉を目覚めさせるトレーニングをしていた」清水は、筋繊維一本一本の自覚どころか、その能力の伸長をも自在にしていたことになる。なんて超根源的な欲望の実現であろうか。結果的には、その事が彼の勝負に影を落とすことになるわけだけど、勝ち負けを超えて得られる何かがあったんじゃないかなあ、と邪知してしまう。
清水宏保は究極の肉体を作り上げ、その作り上げた究極の肉体によって自らの身体を傷つけることになりました。それが悲劇であるか、必然であるか、単に何かの過程であるかを断じることは情緒的過ぎるでしょう。ただ思うのは、人間の限界、物理的な意味での限界をはるかに超えた肉体と神経系がダイレクトに繋がることができたならば…。それが馬術の誘惑の本質に他なりません。
馬に初めて乗った人間は、何を獲得したか。講談社新書「馬の世界史」の中で著者木村凌ニ氏は「速度」とズバリ断じています。それまで歩くことと、せいぜい走ること時速でいえばせいぜい4Kmと12Kmとの間で動いてきた人間が、突然時速60Kmを超える世界を知ることになるのです。その瞬間、人は「速度」という新しい概念と出会い肉体化し欲望するのです。4Kmと12Kmとの間での移動は、おおざっぱに言うとまあ「速い」と「遅い」ぐらいで「速度」という概念を持ち込んで抽象化するほどのこともなかったに違い在りません。それに比べて良く調教された馬を手にいれた人間は大きな区分で言っても常歩、速歩、駈歩、襲歩の四歩様、細かく言うとそれぞれの歩様に収縮、尋常、中間、伸長と三歩様ずつありますから(襲歩は一歩様のみだと思います、たぶん。常歩には他に自由常歩という歩様があります)14種類のギア・チェンジを突然人は持ったのです。(さらに細かく言うとそれぞれの歩様に信地での速度ゼロの運動や後退があります)速度で言えば後退駈歩のマイナス10Kmから襲歩の70Kmまでの可変域を獲得したことになります。これって、ほんと、ものすごいことだと思うんですよ。
馬に乗った時の視線の高さも重要です。人の中に超根源的に巨人化の欲望があるとするなら、建物や乗り物に頼らずに、自分の制御できる範囲でものすごく自分が大きくなれるものと出会えた喜び、それが「馬に乗る」という行為だったのです。
乃木将軍が日露戦争の戦後処理でロシア側のステッセル将軍との会談の際、馬を降りず鞍上から謁見したのも「大きな自分」を演出し相手を威嚇するためだ、と言われています。大きくて強い自分が、深くリアルに実感できる体験、それが馬に乗ることの意味なのです。
RDA JAPANは、「イギリスのRDAの理念に沿い、日本国内において心身に障害あるいはストレスを持っている人に乗馬や馬車操作の機会を提供し、健康や暮らしの質の向上をはかり、また、それを支援すること」を目的としている特定非営利団体です。その活動の一貫として行われた「馬とリハビリテーション講習会」で興味深い指摘がありました。(雑誌「乗馬ライフ」2002年2月号より)障害者乗馬の効用のひとつに、「歩行の再教育がある」と言うのです。原文を引くと「一定でなかったりアンバランスな歩行をする人は、骨盤を水平にし、正常な歩行パターンと類似している馬の歩行(正常で左右対称の歩き方)を体験することによって、自分の歩行パターンを向上させることができる。」つまり、身障者までが健常者の、そしてそれ以上の歩行体験を根源的に体験できる、という性質が乗馬にはあるわけです。そこが移動手段として自動車等と徹底的に違うところですね。
余談ですが、私は自転車の立ち漕ぎが大好きです。ちょうど人が走っている時の姿勢と筋肉の使い方で、駈足の約2倍以上の速度で走行することができるのですから。この感覚は乗馬による走行体験と通じる部分があるんじゃないかしらん。馬体の動き、馬の腰の揺れは障害者乗馬の項でも述べたように人の歩様の延長線上にあります。その状態で時速70Kmを体験するということは、自分の脚で時速70Kmを走る体験に極めて近いと言えます。これは、壮絶な体験です。
2002年春シーズンに記録されたJRA競馬のコースレコード
2月24日 中山 1800 中山記念 1分45秒4 トウカイポイント
4月13日 阪神 1600 マイラーズC 1分32秒6 ミレニアムバイオ
4月28日 京都 1600(内) あやめ賞 1分33秒4 トゥルーサーパス
さて馬術に長じれば長じるほど馬の身体能力が直接自分の感覚、神経と繋がる感じが実感できることは想像に難くないでしょう。障害馬術のレッスンでインストラクターが「障害に吸い込まれるイメージではなく、障害を引き寄せるイメージで」というアドバイスをすることがあります。騎手が新たなイメージを持つだけで明らかに馬の身振りが変化します。イメージひとつで500Kgにもなる馬匹の運動が変化するとは!!これはすごい快感です。馬術の境地を「人馬一体」と表現します。自分と馬がひとつになること、まるで馬の筋肉と鞍上の騎手の神経がダイレクトにつながったかのような境地、それが人馬一体ということでしょう。人馬一体のヨロコビをコーランは「地上の楽園は鞍上にあり」と表現しているそうです。馬にさえ乗っていれば、そこが天国!!!
夫はサッカーを見ているあいだはそれに没頭するから、彼に気づかれずにそっと姿を消して、何時間も馬に乗っていられるのは無上のよろこびだった。夫を一人残したままこんなに時間がたってしまった、しかたがないが帰らなくては、と心配する必要もない……私にとってワールドカップはたまらなく幸せな時間だあった。(メリッサ・H・ピアソン著「馬の物語」より)
日清ヤキソバU.F.O.のCM「夜明け篇」と「お湯を求めて篇」の真の狙いは、実はそのあたり「人間の限界、物理的な意味での限界をはるかに超えた肉体と神経系がダイレクトに繋がっているヨロコビの表現」にあると睨んでいます。このCM、ご存知の方も多いと思いますが、広末涼子が上半身は人間、下半身は馬のケンタウルスに扮する、なかなかショッキングなものです。人馬一体、馬の筋肉と鞍上の騎手の神経がダイレクトにつながったような境地を表現するモチーフとしてこれほどふさわしいものはありません。
日清のHPによると「広大なUFOの世界を表現するため、とある惑星の草原で生きる「ウマい族」を設定しました。広末さんは、「ウマい族」の族長役として子分を引き連れ雄大な自然と音楽の流れる中を豪快かつ逞しい演技を披露してくれました。その焼そばウマい。それをお伝えしたくて企画したCMです」とのこと。
キャッチフレーズは「ウマい」で、馬。ダジャレ。先にご紹介したリーバイスのCMも「TWISTED TO FIT」(フィットするためのツイスト)で、ひねるカラダ。ダジャレ。スーパー・ラディカル系快感をテーマにしたCMは、なんでダジャレなんだろう。たぶん言語化できない根源的で深層的な欲望をあえて言語化し正当化するために、あるいは言語化できないことを正当化するために言い訳のようにダジャレを使っているのではないでしょうか。これは企画者自身も気付いてない可能性があります。
日清のHPによると企画意図は「広末さんの顔のアップから、カメラが引いていくと、その服装は皮一枚。しかも、なななんと!下半身はウマなんです。これもみんなその焼そばウマいを表現するためのもの」と書いています。これは企画者の商品へのリップサービスでもなく、苦し紛れのでっちあげでもなく、まあ、本当にそういうつもりだったんでしょうけれども本質はより深い超根源的な快感が身体性というブリッジで食欲と結びついたもの、と考える方が鑑賞する態度としては楽しい/正しいと思うのですが、いかがでしょうか。いずれにしても、これからダジャレのCMを目にしたら要チェック、ということで…。
馬に関わる、もうひとつの広告。馬具商としてのエルメスジャポンの雑誌広告のキャッチフレーズは、「その快適さ、開放感」。
先述の書物「馬の世界史」にならって言うと、有史以前にさかのぼる馬と人との出会いの瞬間がスーパー・ラディカルな欲望と人が出会った最古の瞬間と言えます。その時肉体は速度と身体性の拡張、開放感とともにまた別の大切な概念と出会います。エルメスジャポンの齋藤峰明社長の言葉を引きたいと思います。
たくさんの人がパリに行かれますが、パリの街をよく見ていただくと、馬と馬車を中心に考えてつくられた都市だということが分かります。例えば、中央郵便局には大きな厩舎がありました。古い館の中庭は馬車を駐車しておけるようになっていたのが分かります。
人間の文明がこのように大きく発展してきたということには、馬が大きくかかわっていましす。交通機関が馬から車に変わり、戦争に馬を使わなくなったからといって、馬をないがしろにはできません。19世紀のパリには馬が8万頭いました。馬の美しさを競い合うことで、人々はエレガンスを追求していたのですね。エルメスはそういう仕事をやっていた。エレガントなノウハウを持っていたということでしょう。(中略)馬が身近にいる生活が、すなわち豊かな生活だと私は考えます。だから、日本の馬術界がもっと盛んになること、すなわち日本が豊かになることだと思います。(雑誌「馬術情報」2002年6月号より)
上記の発言には本稿にとって重要な点が二つ含まれています。一つは都市が馬と出会うことによって都市自体がスーパー・ラディカルな変化を遂げた、という指摘。もう一つは人がエレガンスという価値に覚醒する契機が馬との出会いであった可能性がある、という指摘。古代においてエレガンスの発見と覚醒は生きる意味さえ変えるような身体深部にズシリと刺さるものだったに違いありません。いずれにしても馬がスーパー・ラディカルな進化に果たしてきた役割の大きさと可能性を示唆した発言と私には読めたのです。
さて、そろそろ名馬術家の発言から本稿のテーマに関わる言葉を、ある種の結論に向けて引いてみたいと思います。
牧場で自由に走っている馬を見たことのない人はいないであろう。総ての運動において如何に柔軟であり、また如何に軽快であることか!しかし、この馬に鞍を置きハミをつけて乗り、騎手の思い通りにしようとすれば、如何にその姿の変わることか!自由な状態においては大地を軽々と飛び回っていた馬が、騎手の脚の間では苦しそうに這いずりまわり止まってしまうのである。それは何故だろうか?自由な馬は自分の力の絶対的な支配者であり、自分の身体は自分の思い通りになるので、我々が感嘆するほどの非常に優雅な運動をするのである。しかし人に乗られるや否や窮屈を感じ、馬の自由は麻痺し、自分の意思は放棄させられるが、未だ騎手の意思は理解できずにいるのである。(フランツァ・ボーシェー原著「ボーシェー氏の馬術」より)この美しい文章の「馬」を「人」に、「騎手」を「社会」に読み替えれば、そのまま、なぜ今スーパー・ラディカルなのか、という詩的なまでに的確な解説になるのではないでしょうか。
本稿執筆中にフランスはル・マンで行われたCSI-Cグランプリという馬術競技で日本の桝井俊樹選手優勝のニュースが飛びこんできました。スゴイ、スゴイ、スゴイ。ある意味ではサッカーW杯決勝リーグ出場よりも価値があることかもしれません。マジで鳥肌が立ちました。この鳥肌が立つという感覚も、スーパー・ラディカルにおおいに関係あり、なのですが…。
肉体拡張欲求が拡大する可能性のある市場
〇陸上競技、水泳、自転車等の競技系スポーツ市場
〇馬術、体操競技、ダンス等の表現系スポーツ市場
〇その他Xスポーツ全般の市場
〇自動車、バイク関連市場
〇都市計画事業市場
〇旅行関連市場
〇食事関連市場
〇エステティック系市場および整形外科系市場
〇アパレル系市場
肉体拡張欲求が拡大する可能性のある表現領域
〇音楽、特に電子音楽
〇肉体の鍛錬が表現の深度に直結する舞踏等の表現形式
〇表現形式としてのコンピュータゲーム
〇小説のモチーフとして、またドキュメンタリーの新しい在り方として
〇アニメのモチーフ、および設定として
〇バーチャル体験としての映画のアイデア
〇フランスのジンガロ座に代表される動物と人間が競演する表現形式
〇なんらかの器具を用いるすべての表現形式
第三章
米国人の80%は自分の生活を簡素化する方法を探り、78%はストレスを減らしたいと考えている。300万人の米国人が、ヨガや太極拳などの東洋武術を修行することで積極的に静穏とさらなる健康を求めているのだ。(マーク・コーベ著「エモーショナル・ブランディング」より)
欲望の三つの発展段階、または仮面ライダー龍騎が戦う理由。
消費の契機となる欲望の在り様には3つの発展段階があると仮説してみます。最も根源的な欲望は「生存」への欲望です。生きるために必要最低限の欲望ですね。食欲、性欲、睡眠欲等がこれにあたります。これを「ラディカル」な欲望と呼びましょう。
とりあえず今日明日生きるのに困らない分の「物」が保証されると、人は自分が社会的にどんな意味を持っているのか、ということに興味を持ち始めます。見栄とか地位とか、ある種の人々にとってはどんな汚い手を使ってでも手に入れたい、というぐらい強い欲望です。意味ある存在であると他者から見られたい、そのためにブランド物を身にまとったり、ネット・サーフィンで情報を貪ったりするようになります。これを「ソーシャル」な欲望と呼ぶことにします。
少衆の時代、と言われた昔がありました。消費傾向が個人化、個性化していったと言われた時代です。それは真の個性化だったのでしょうか。ある商品が個性的であるためには、その商品が「個性的であること」を社会に十分に認知されている必要がありました。「あのブランドは一般に個性的と言われている、だからあのブランドの服を着ている人は個性的だ」という感じですね。(そのことをメッセージの対象としたコピーも目立ちました。例えば「趣味のいい悪趣味です。ジャン・ポール・ゴルチェ」)逆に真の意味で個性的すぎると商品やブランドの意味が認識されず個性的とは受け取られないまま無視されるかせいぜい変わり者扱いされる、というのが消費社会における「個性」の本質であり構造だと思うんです。前衛芸術が一般の社会からどう見られているか(あるいは見られていないか)という構図ととてもよく似ています。真の個性は前衛芸術みたいなものなのです。ソーシャルな価値、ソーシャルな欲望とは「世間あっての個性」、「他人ありきの自分」。どうありたいかではなく、どう見られたいか、という欲求。意味、記号、情報、地位への希求。
さて、あんなに欲しかった「意味」も「情報」もITの進歩によって自由に手に入るようになると価値は下がってしまいます。ソーシャルな欲望は、なんとなく冷え込んでいます。(今の不況と関係がありそうです。ITが不況脱出の決定打にならない感じとか)そんな時、人は本能的に次の欲望をあらわにしてくる。超根源的=スーパー・ラディカルな欲望は社会的意味とは何ら関わりません。それはただ、あらわになるのです。それはより内在的で、もちろん文字通り超根源的で、深い身体性の「拡張」「覚醒」を欲っする気持ち。たとえば中世のサッカーに興じた人々、後藤健生氏の言う肉体的接触を楽しみたいだけのためにサッカーをした人々は、自分のその欲望に気付いていなかったと思うんです。一応、勝ち負け、一応、村の名誉、とか言って、でも肉体を突き動かしていたのは社会的意味とは関わらない(だからこそ自覚的である必要のない)暴徒一歩手前の肉体接触というスーパー・ラディカルな欲望だったと言うことができるでしょう。
深い身体性の「拡張」「覚醒」を欲っする気持ち。そのもう一つは馬との出会い、馬との暮らし。「くらくらするような力の実感。合図をすればすぐに走り出している。自分の意思で起こしたように風が吹き、身体の下の力強い生きものは従順で、走れと命じれば走り出す。リズミカルに上下するその動きに身をまかせていると、たがいが別々のものではなく一つになったように感じる。そして集中力。あっという間に禅の悟りに達したかのよう」な身体の深部の変化への希求、欲望、幸福感。(メリッサ・H・ピアソン著「馬の物語」より)これらの獲得に向けた純粋な思いがスーパー・ラディカルのもうひとつの原点を形作っていると言うことができるでしょう。
なぜ社会が高度化するにつれ、人はスーパー・ラディカルな欲望を抱くのか。これについては斎藤隆氏が興味深い指摘をしています。
「暴力的な身体から従順な肉体へ」という方向性が、モダンな社会におけるからだの変化の主流だとされている。(中略)ミシェル・フーコーもまた、監視や規律訓練を通じて自分自身を従順で生産的な身体へとつくりかえさせるモダンなシステムを批判している。(中略)ヨーガや禅など身体を使うワークショップの問題意識は、自然と切り離されて生命力を失い、孤立し、硬く閉じられ、他者とコミュニケーションしにくくなってしまっている身体をどう開いていくのかというものであった。(「NHKブックス 身体感覚を取り戻す」より)
つまり社会システムにがんじがらめにされた肉体を覚醒させ解放したい欲求が現代人には奥深く存在するのではないか、という論ですね。これは後藤健生氏が論じているサッカーの起源とも深く関わっています。サッカーは、その始まりの時には実は勝ち負けは関係なかった、ただ人は人とぶつかりあいたかったのだ、という論です。これによって中世という暗黒なシステムにがんじがらめにされた肉体を覚醒させ解放したいと肉体の意志が欲望したのではないでしょうか。
そう、スーパー・ラディカルとは肉体と欲望の根源的な覚醒でもあるのです。キリン・チャレンジカップのTV放映タイトルバックはサポーターが次々に目を開いていく、というもの。まさに覚醒がテーマ。このタイトルバックの作者は直感的に「サッカーの本質は自由と覚醒だ」と喝破していた、と見るのは穿ちすぎでしょうか。
そしてふたたびエルメスジャポンの雑誌広告のキャッチフレーズ、「その快適さ、開放感」。このコピーの作者は馬術の持つ身体拡張性とその結果としての覚醒と解放/開放を自覚していたと見ても的外れではないはずです。
消費社会の重要なテーマのひとつに、ブランド論があります。これをスーパー・ラディカルの視点から俯瞰してみましょう。今、各メーカーが最も重視し大切に育て上げようとしているのがブランド資産。全く同じ性能を持った全く同じ商品でもB社のブランドでは500円でしか売れずA社のブランドでは1000円で売れたとすると、A社ブランドは相対的に差額500円の価値を持つと考えられます。ブランドは、この時@500円を産み出す資産なのです。一般に物性価値と人格価値の両面からブランドは形作られると言われています。全社はモノとしての良さ、品質の高さ、後者はモノの意味、社会的価値を指しています。今まで見てきたように消費が肉体欲求により深く根ざしたものになってくると、ブランドの構造自体が変わる可能性があります。物性価値は肉体欲求の面的価値(普遍性)へ置き換えられ、人格価値は肉体欲求の深度(個性)へ置き換えられる可能性があるでしょう。社会的地位をより強く象徴するメルセデスベンツ・ブランドと、肉体的欲求をより深く追求するポルシェ・ブランドの意味と価値が逆転する可能性すらあるかもしれません。その意味においてメルセデスベンツのブランド価値がソーシャル・バリューであるのに対して、ポルシェのブランド価値は典型的にスーパー・ラディカルです。
ポルシェのブランド価値について考えながら石井淳蔵氏の著作「ブランド 価値の構造」を眺めていたら、ちょうどポルシェのブランド価値(=ブランドアイデンティティ)について触れているくだりがみつかりました。本論とも大いに関係のある叙述です。
ポルシェのコアとなるアイデンティティは、「速い車」ではない(これは実際、そのコミ ュニケーションのテーマであり、その製品の諸属性のひとつである)。シンボル的には、ポルシェのコアとなるアイデンティティは「ヒーロー」である。それも、現代の意味でのヒーローではなく、理想的な意味でのヒーローである。
ヒーロー。理想的で古典的なヒーローは筋骨隆々で運動能力に優れている。時に不死身ですらあり、鳥のごとく飛んだり、蜘蛛のごとく重力を操ったりする。その意味で身体拡張感覚を本質的、根源的に持った存在と言うことができるでしょう。スパイダーマンは、自己の肉体の変質を無邪気なまでに喜んでいて、その喜びをカラダいっぱいで表現していました。おかげで叔父さんと約束していたペンキ塗りをすっぽかす始末。
映画スパイダーマンの中で、主人公が社会との関わりを模索するくだりがあります。自分が活躍するシーンを自分で写真に撮って新聞社に売り込み、現金を手に入れると同時に「正義の味方」として社会的に認知された存在になろうとしているわけです。ところが敵の陰謀、マスコミの悪意等により社会的存在であることは自分にとって無意味であると悟り、社会との関係を自ら断ち切っていきます。その時スパイダーマンはソーシャルなヒーローから真のスーパー・ラディカルなヒーローとなるわけです。
純粋に勧善懲悪のヒーロー、たとえばウルトラマンはラディカルなヒーローです。人類の「生存」という根源的な価値のために戦うわけですから。
旧仮面ライダーはソーシャルなヒーローでした。望まない改造手術を施され社会からの阻害に常に悩み続けるヒーローの、戦う理由のひとつは社会的アイデンティティの獲得です。FBIと共闘路線を採ったりライダー少年隊を組織してしまうあたり、社会的存在たろうとする仮面ライダーの気持ちが浮き彫りになっています。
同じ仮面ライダーでも「龍騎」はスーパー・ラディカルです。怪物も登場しますが、ストーリーの興味の中心は怪物を倒すことにはありません。怪物を倒すたびに仮面ライダーの肉体に変化が起こる、さらに他の仮面ライダーを倒すことで圧倒的な力を手に入れられる、という設定なのです。何人もの仮面ライダーが登場しては、その超根源的な変化を競い合うという構造も面白くて、もうこうなると「生存」も「社会」も戦闘の動機にはなっていなくて、純粋なまでに肉体の深層部から湧き上がる、自分でも説明のつかない何かのために戦う仮面ライダー達。自分を変えたい欲求のために戦うスーパーヒーロー。スーパー・ラディカルですね。
キアヌ・リーブスがマトリックスで演じたように、私たちの真の肉体性は仮想空間にからめとられているかもしれません。ウィレム・デフォーがスパイダーマンの中でつぶやいたように私たちの肉体はその可能性の何十分の一しか使われていないのかもしれません。仮想空間のような社会規範にしばられた肉体、何十分の一しか使われていない身体性を遺憾無く発揮する喜び、それがとりもなおさずスーパー・ラディカルなのです。それは先祖帰りするものであってはならない。創造的で前向きな経済活動に方向付けられねば私たちは単に動物的存在に戻るだけになってしまう。けれども秩序を持ちこむことは反動的だ。さて、どうしようか。そこで最も有効で重要な武器になりうるのが芸術やCM等の表現活動だ、と思います。
表現論としてのスーパー・ラディカル論、またはセザンヌから僕達が学ぶこと
肉体的な超根源的変質の喜びばかり論じて来ましたが、それだけがスーパー・ラディカルだと思われるのは少し私の意図とは違うんです。映画を見ること、音楽を聴くこと、絵画を鑑賞すること等で単純に「感動」するという一過性な感情を体験する以外に、確実に自らの内面の、しかも奥深い部分が化学変化を起こしていると実感すること。それがスーパー・ラディカルな体験だと定義したい。そしてそこに向けて、そんな結果を得るために、どんな表現手法、テーマ、コンセプトがありうるのか、という模索がスーパーラディカル論としての表現論になるはずです。
「普通、映画は観て面白いと思っても、自分なりの消化作業が終わると心体が新たな代謝を欲するように、また次の別の映画へと気分が移ろってゆく。通例の移ろい(ルーティン・ワーク)が許されず、二日酔い三日酔いでいつまでも偏頭痛が抜けない、そんな感じなのだ」と古舘伊知郎はある映画について雑誌「frau」に書いている。まさに映画という表現物により導かれたスーパー・ラディカルな体験の描写と読むことができるでしょう。
スポーツが大衆化した20世紀初頭、スポーツのもつスーパー・ラディカル効果を真っ先に予感し表現として定着したのが当時の現代作曲家達でした。ドビュッシーはテニスをテーマに「遊戯」というバレエ作品を書き、サティはその名も「スポーツと気紛れ」という組曲を書き、オネゲルはまんま「ラグビー」という作品を書きました。音楽的な体験と肉体的体験としてのスポーツとの共通点、すなわちスーパー・ラディカルな変化の快感を直感的に感じたのだ、と思います。現代音楽の最も成功した手法のひとつミニマル・ミュージック(同形のモチーフが延々と繰り返されて麻薬的効果をもたらす気持ちのいい音楽。ロックにも通じるところが多い)も、脳ではなく肉体に直接語りかけ、その深部での変化を楽しむという鑑賞法を考えると、スーパー・ラディカル・コンセプトによる表現事例として見ることも可能でしょう。
身体性超越欲求を、CM制作者の立場から見るとどうなるか、言いかえるとスーパー・ラディカルな欲望は消費への貢献というビジネス的モチベーション以外に表現の契機にいかになりうるのか。このテーマを考える上で重要なヒントを有名な画家セザンヌは次のように語っています。「私は画家は顔を解釈するものだと考えている。画家は愚か者ではないのだ」そうなんです。表現者は顔(=肉体)を解釈することに強烈な芸術的モチベーション、表現欲求を持っている、と一般的に考えていいでしょう。ピカソしかりジム・キャリーしかり。そうでなければ「愚か者」になってしまう、とすらセザンヌは言っています。「肉体の新しい解釈」、これこそがスーパー・ラディカルの表現コンセプトではないでしょうか。
CM表現は、その時代の欲望の鏡です。私たちは優れたCMによって自らの欲望を知り、欲望の矛先の変化を知ることになるのです。物欲から情報欲へ、そしてより根源的な身体欲へ。何を持っているか、から、どう見られたいかへ、そしてより本質的に「どうありたいか」への欲望の旅。メルロ=ポンティの言葉を借りれば「自由」への希求。そんな段階に、今の私たちはいるのかもしれません。
私たち表現者は、今こそ肉体の声に真摯に耳を傾け、より深い、より本質的な欲望を嗅ぎ取り、新しい「自由」を提示すること。従来の常識が根源的と形容する衣食住の欲望を超えるスーパー・ラディカルな欲望を具現化すること。それが新しいマーケットを産み出し、新しい表現を産み出す契機になると信じます。未来は私たちの肉体の中で産声をあげているのです。