以前(6/22)ここにアップしました「CMは肉体に何をしたか①」の続きです。
オリジナルの掲載は2002年日韓大会の年に「OPUS」という芸術系雑誌に寄稿したものです。
今ふたたび、時はめぐり、もう一度あのときの論を問うてみたくてお目汚しさせていただいております。
では。

ボールから見たサッカー、そして対象物としての野球。ポストモダンとモダン。ソーシャルとスーパー・ラディカル。

 二元論的に触れてみたいと思います。っていうか、僕二元論大好き。あれに対してこれ、っていう考え方って、爽快感があって、二元論的対比を思いついた時って、とってもシアワセ。
 細川周平氏の名著「サッカー狂い」をテキストにしつつ、サッカーと野球の二元論の中でスーパー・ラディカル論を展開してみましょう。サッカーは肉体分離欲求が具象化されたスポーツです。サッカーのボールは分離された自己であり、移動する結論です。対比的に言うと野球のボールは移動する制度であり、結論を留保する貨幣です。サッカーにおいてボールは自分の分身、つかず離れず制御しつつ、タイミングをはかり思いっきり自分から分離させゴールを決めれば、それが結論。それに対して野球では選手は常にボールから逃げたがっているように見えます。(死球を受けそうな時の打者の振る舞いが象徴的に思える。触れれば塁に出られるのに必死にボールから逃げているという矛盾)もしくは所有と消費。ボールの振る舞いはそれだけでは得点を決定せず選手がその瞬間、どう動くことが可能か、だけを決定するのです。つまり移動する制度と言うわけです。安打になれば打者は走ることができる。(走らないという選択肢すら在り得る)セーフにも、アウトにもなりうる。そのボールは結論が留保された貨幣のように見えます。(選挙戦において貨幣を持っていることは有利だがそれだけで勝利者にはなれない、ということを思い出して欲しい)唯一ホームランだけがボールの振る舞いイコール結論となります。だからこそ人はホームランを待ちつづけ、あんなにも快感があるのでしょう。(しかし、ホームランですら点数は走者の数によって揺れ動き、決定はされていない)決定力やアイデアというサッカー独特のタームは野球には全く似つかわしくありません。人ではなくボールの視点から「決定力」を見ると野球には存在せずサッカーには存在することがよくわかります。もうひとつのサッカー的ターム「アイデア」は自己を意味するアイデンティティと同じ語源を持っています。サッカーは個人が決定する領域が広く、野球は作戦遂行力がより大きく問われると乱暴ですが断じたとすれば、同じ球技でも根ざすところ快楽の質が全く違うことが理解できるでしょう。そしてサッカーの自我はボールの姿を借りて分離する。キモチイイー!!

  分離された自己を、ボールのように扱うこと、先に触れたサッカー前史についての叙述「もともとフットボールのような遊びがすでにあって、たまたま首が転がっていたので、それを使ってフットボールをやってみたというだけのことだろう。(後藤健生「サッカーの世紀」)」も、サッカーのボールが分離された自己である以上、肉体に近いものであればあるほど満足感が高まると考えられます。その意味で生首なんて願ってもないサッカーボールだったのでしょう。本当は自分の首を使いたいぐらい?生首がかなわぬのなら、せめて手首でも…。

 あれれれ?近い記憶にデジャブがあるなあ、と思ったら、そうそうリーバイスの、あのCM。
シーン21、キャッチボールで受け損なった手首が路傍にころがっている。
シーン22、そのカフェでコーヒーをテイクアウトした男女は、またクルマで旅立っていく。
シーン23、手首をくわえた犬がクルマを追いかける。

シーン21でやっていることはキャッチボール=野球だけれど、精神的にはサッカーにより近いと言えます。だって結論(コーヒーを買うこと)に達したら、急速にボール(分離された自己、もしくは結論そのもの)に興味を失う感じ、サッカーにそっくりですよね。ボールへの執着は、むしろ貨幣としてボールが存在する野球のもの。サインボールしかり、ファンのホームランボールの奪い合いしかり。貨幣は所有してこそ意味がある。サッカーのサポーターは勝敗を巡って時に戦争にまで至る争いをし、野球のファンはホームランボールを巡って殴り合いのケンカすら日常茶飯事だ。概念と物。ポストモダンとモダン。ソーシャルとスーパー・ラディカル。
 
 さて話は、性的隠喩としての肉体分離欲求(身体性超越欲求)まで戻ります。CM以外のテキストをちょっとだけ俯瞰してみましょう。まずはアニメーション。リーバイスよろしく、手首を飛ばすといえば…。
 永井豪先生のロボットアニメ「マジンガーZ」の必殺技はロケットパンチでした。拳が手首から切り離されロケット化して敵をやっつけるという技でしたが、まさに肉体分離欲求が戯画的に形になったものと言えないでしょうか。大ヒットし、巨大合体ロボットモノの元祖にして代表作の地位を獲得できたのも、性的意味を持つ肉体分離欲求(そして合体欲求)を隠喩として散りばめたからだと私はにらんでいます。少年マンガに初めてエロスを持ちこんだ「ハレンチ学園」と巨大ロボットモノに初めてエロスを持ちこんだ「マジンガーZ」の作者が同一である点も興味深い事実です。同じ作者の「デビルマン」「デビルマン・レディー」も身体深部での根源的変化をテーマにしている点で同一線上にあると見ていいでしょう。
 
 うーん、ゴールは何か爆発的な感じがするな。どっかーんって。それでどういうリアクションをしていいのかわからなくなるんだけどね。スルーパスが決まったときは毒みたいな感じで、あとでじわじわと効いてくるんだよね。もちろんセックスとは比べられないけど、あえてってことで言うと、セックスなんかとは比べられないよ。圧倒的にスルーパスやゴールのほうが気持ちいいよ。(村上龍「悪魔のパス 天使のゴール」より)

 川端康成の「片腕」という掌編も、まさに性的隠喩としての肉体分離欲求を描いたものと見ることができます。見ることができます、なんてもんじゃない、真正面から、このテーマを掘り下げた一篇です。その小説は、次のように始まります。
 
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。
「あ、指輪をはめておきますわ。私の腕ですというしるしにね。」と娘は笑顔で左手を私の前にあげた。「おねがい…」
左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

 ね、いいでしょ、濃密でしょ。一晩、私の膝、指輪、おねがい…言葉達が無駄なく連関しあい、響きあって性的なイメージが濃厚に立ち昇ってきます。
 この小説は、件の右腕を預かった男性の視点で進行していきます。この腕にエロスを感じていく主人公。身体性を超越したこの女性の欲望ではなく、右腕という肉体を主体とするなら客体でありある種の傍観者である男性の欲望として描かれるところが興味深い点です。つまり身体性拡張したい欲求ではなく身体性拡張されたい欲求として描かれた、ということですね。これは例の「阿部定」の事件と構造が類似していることから、何らかの影響なりヒントを著者が得たのではないかと邪推したりして…。

 肉体分離欲求によって拡大する可能性のある市場
〇スポーツ、特に球技に関わる市場
〇ビリヤード、ダーツ等の遊興市場
〇スカイダイビング、バンジージャンプ等のレジャー市場
〇携帯電話、パームトップ等のモバイル・コンピューティング市場
〇風俗産業市場、新しいエロスのアイデアと技術
〇バーチャルソフト市場
〇アパレル市場

 肉体分離欲求によって拡大する可能性のある表現領域
〇音楽、特に声楽音楽
〇新しい表現形式の契機としてのCGアート
〇小説のモチーフとして
〇アニメのモチーフ、および設定として
〇自己のミニチュアとしてのアクセサリー
〇手触りの移植としての陶器

(つづく、かも。)