日韓ワールドカップの時に、


美術雑誌「OPUS」に寄稿した原稿です。


今でも、基本的な私の考え方は変わっていません。











肉体はCMに何をしたか。


~スーパー・ラディカル論としてのサッカーと表現





中世イングランドのフットボールの祖先は、ブリテン島に侵入してきたデーン人の首を蹴って遊んだものだという話もあるが、これはもちろん伝説だ。もし首を蹴ったというのが事実であったとしても、それがフットボールの起源であるわけではなく、もともとフットボールのような遊びがすでにあって、たまたま首が転がっていたので、それを使ってフットボールをやってみたというだけのことだろう。(後藤健生「サッカーの世紀」)    





カンヌ広告映画祭とサッカーの思惑、または自分をブっぱなすことの快楽。  





「生首を使ってフットボールをやってみたというだけのことだろう。」 はたして本当に「たまたまやってみただけのこと」だったのでしょうか。もっともっと深い意味がありそうな気がしてならないのです。だって、生首ですよ。深い欲望か、社会的要請か、憎悪もしくは怒りか、何らかの強い動機が必要な気がするんだけどなあ。本章は、こんな疑問を出発点にして展開される予定です。 それは、ともかくW杯!!!開幕!!!  





何は無くともW杯!!!日本代表決定劇は、ドラマティックだった。(シュンスケー!)そして16強、納得のできない惜敗。めちゃめちゃ強かった韓国。今年、スポーツの喜びがカラダ中を駆け巡っている。そもそも2002年の幕開けとなった、冬季オリンピックも(いろいろあったけど/いろいろあったからこそ)エキサイティングだったし、(銀メダリスト清水宏保について書きたいことがありますが、それはまた後で。)阪神タイガースも、ごりごりに魅せてくれている。イチロー、石井、佐々木、新庄等大リーグからも目が離せない。(イチローも、新庄も、大リーグに行って、顔もカラダもだいぶ変わりましたよね。何があるんだろう、大リーグには…)NFLの好カードもやってきた。武豊はやっぱり天才だった.。そしてタフだった。アグネスデジタルもやっぱり本物だった。スポーツニュースをストレスなく、むしろ大いなる喜びを持って見られる日々が続いている。肉体の輝きが人々を魅了した年として2002年は記憶されるだろう。





そして何は無くともW杯!!!  われわれCM業界のW杯とも言える「カンヌ広告映画祭」。本稿執筆時点では2001年版が最新になるわけですが、これこそまるでW杯のような、オリンピックのような、大リーグのような「肉体の祭典」のように私には見えました。身体性の超越がテーマになった作品が上位にひしめいている、という印象を受けたのです。56本の入賞作品のうち私見ですが、ひい、ふう、みい、そうですねえ20本は身体性の超越にまつわるアイデアとして鑑賞できるものでした。実に36%。時代が身体性の超越を求めているのか、CMの本質なのか、表現の新しい武器庫になりえるのか。    





カンヌの傾向の変化は、まんまCM業界の傾向の変化であり、とりもなおさず市場の、そして消費社会の傾向の変化だと考えていいでしょう。  20世紀末、消費は「象徴交換としての消費」でした。つまり20世紀中盤までに物欲がほぼ満たされ、人々は世紀後半から世紀末にかけてイメージ(象徴、意味、情報と言いかえられます)を買うことに熱中していた、と言われています。典型的な行動がブランドブーム。エルメスを身にまとうことはエルメスの物性をまとう以上にその意味をまとうこと(リッチ、エレガント、オーセンティックに見られるということ)に価値がある、と考えられていたのです。20世紀中盤にクライマックスを迎えた大量生産、大量消費から、情報欲求、情報消費に向かったのです。  21世紀を迎えて、ネットワーク社会がITによって現実化すると情報欲求も一巡します。情報はいつでも、どこでも、欲しい形で得られ、また個人が不特定多数に向けて情報発信できるようになり、情報欲求もある種の飽和点を迎えます。これにより無限とも思えた「意味」への希求も底を突きました。イメージは消費の契機として強い力を持ちえなくなってきたのです。  その時、反動的に物欲に戻るのではなく、より深く肉体に根ざした、言わば「身体的欲望」が新しい消費のモチベーションとして台頭してきたと私はにらんでいます。身体に根ざしたより根源的な欲望、ここではスーパー・ラディカルな欲望というキーワードで呼んでみましょう。ラディカルには根源的という意味と同時に革新的という意味をも含んでいます。そのことも本稿のキーワードとしてふさわしいと判断しました。  





スポーツ評論家の後藤健生氏が著書「サッカーの世紀」の中で20世紀のサッカーと21世紀のサッカーというテーマを論じていました。20世紀の大量生産、大量消費の時代のいわゆる近代サッカーはゴールを奪って勝つという目的を持った。情報化社会を迎え少品種大量生産の時代から多品種少量生産の時代に移り、時代精神がそのように変化してくるとするなら21世紀のサッカーは単にゴールを奪って勝つだけでなく、美しさなどの価値をも追求するようになってくるだろう、と正しく喝破しています。サッカーする肉体が勝つこと、点をいれる快感に加えて、美しくありたい、というより重層的な欲望を持った、と言い換えてもいいかもしれません。  





美しいサッカーと言えばキャッチフレーズ的にブラジルということになるのですが、W杯決勝戦でのブラジルは美しくなかった、とヨハン・クライフは怒っていました。「この日、ブラジルが優雅にプレーしていた時間は、先制点を決めた直後、あるいはカウンターアタックをしているときだけだった。なぜか。創造すること、冒険することをいっさい放棄していたからだ。」(雑誌「WWサッカーマガジン」2002年7月13日号より)全員サッカーを標榜したクライフには我慢のできない試合だったのでしょうが、ブラジルチームのためにあえて言えば、このゲームは新しい21世紀のサッカー美学を予感させたものとも考えられます。組織は機能せず、けれど個人技が美しいという状況は、より身体性に人々が魅せられているという環境の裏返しと解釈することも可能でしょう。  サッカーとマーケティングをパラレルに論じることは、もちろん無理がありますが、消費する肉体の欲望がより深く重層的になっていくことは、欲望が超根源的(超革新的)=スーパー・ラディカルになっていくことであり、社会構造上当然ありうることだと思います。カンヌ広告映画祭の傾向の変化は、まあ、そんな事かなあ。すごく肉体っぽいんですよね。





根っぽいし、源っぽい。  カンヌ広告映画祭、身体性超越系の中で私が最もショックを受け、愛し、嫉妬し、本稿を書くきっかけとなったのがリーバイスのCMです。このCMのシノプシス、あら筋を紹介しましょう。


シーン1、まず、画面上を夜空が流れていく。


シーン2、走るクルマのシーンに繋がることによって、それが車窓の風景であることがわかる。


シーン3、街角に不気味なマネキン。これから起こる出来事を暗示。


シーン4、車内のシーン。実はここでカーラジオのボリュームを回す手首が360度回転しているのだが注意して見ないとわからない。


シーン5、MOTOGRILLというドライブインのマーク。クルマの目的地を暗示。


シーン6、やりかけのジグゾーパズル。MOTOGRILLの客のテーブルらしい。


シーン7、店内の古い写真(ビリヤードをする老婦人二人)、店の古さがわかる。


シーン8、クルマ、ドライブインに到着。車内のひとり、ぐるりと首を一回転。


シーン9、車内の若者たち(男女)クルマを降りると踊り始める。


シーン10、指がグニャリとゴムのように曲がる。手首を180度回す。リズムを取っている足が、足首を軸に360度回る。


シーン11、腕が波打つ。


シーン12、下半身から上半身にカメラがパンすると腰の向きが逆だ、つまり、ヘソの下に尻がある状態。


シーン13、首を軟体動物のように回す女。


シーン14、自分で自分の首を引っこ抜く男。


シーン15、その首を抱きかかえる女。


シーン16、唖然として見守る普通の少年達。


シーン17、少女の手首を引き千切る男。


シーン18、その手首でキャッチボールを始める。


シーン19、足をひねりとり、腕をひねりとり、どんどんエスカレートしていく。


シーン20、首が逆向きについた赤ちゃんが、よちよち歩く。





キャッチフレーズは「TWISTED TO FIT」(フィットするためのツイスト)


LEVI’S ENGINEERED JEANS  





どこかセクシーな趣のあるこのCM、女性が男性の腕を捻り取り愛撫するような仕草を見せるシークエンスは、捻り取られた腕が男根の隠喩ではないかと見る物に想像させます。そもそもこのCMのテーマ「TWISTED TO FIT」からすると「捻る」だけで十分広告として機能し成立する。その視点から言えば捻り取る行為の「取る」は余分な要素のはず。だからこそ表現の本質があると見ることもできるわけです。ロラン・バルトがその著作「第三の意味」の中で論じていたように表現物は逐語的に説明できない部分(一見無駄と思える部分)にこそ表現者の意図があると見ていいのではないでしょうか。  





さて、捻り取られた腕=男根、とするとすぐに思い出すのが阿部定の事件。愛人の男根を切り取り大切に持ち歩いていたという、その猟奇性で有名になった事件ですが、本質はひょっとすると人が等しく持っている肉体分離欲求(そして、それはいつも性的快感とつながっている可能性がありますね)を著しく刺激したからだ、とは言えないでしょうか。  その快感の由来は普遍化するとどうなるのか。ある思想家の著作から、そのあたりのヒントを拾ってみたいと思います。  





身体性と言えばメルロ=ポンティを避けて通るわけには、どうしてもいかないでしょう。(モーリス・メルロ=ポンティは、身体性について最も深く思索した哲学者の一人です。皆がなんとなくは感じていながら言葉にできないでいることを、身をよじるように言語化していくプロセスは、スリリングで面白いですよ)さて身体性超越について、結論めいた言説になってしまうのですが、メルロ=ポンティの著作から引用したいと思います。曰く「本当の自由というものがあるとすると、それは生の内部で、自分の同一性を放棄せずに、しかも誕生の時点からのわたしたちの状況を超越しながらでなければならない。」まさに、このリーバイスのCMについての的確な評論としてすら読むことが可能です。性的な欲望の表出であると同時に、より普遍的でより深層的に語るのであれば、このCMは自由への希求を表現していた、と読めるのです。リーバイス=アメリカ=自由(アメリカが本当に自由かどうか、という論議は別に譲ります)という図式が鮮やかに浮かび上がってきます。またロードムービーのような冒頭部も自由を象徴していると読むことが可能でしょう。 





リーバイスについて、もうひとつ余談。メルロ=ポンティのすぐ近くにいた哲学者にレヴィ・ストロースという人がいるのですが、英語読みするとリーバイ・ストラウス、リーバイス社の創設者と同姓同名ということになります。(講談社新書「構造主義入門」より)ま、たんなる偶然ですけどね。  

(つづく、かも?)