今読んでいる小説の、京都のホテルで働く圭吾が、二条城の周りをランニングする、という場面があるのですが、圭吾がどうして自分が走っているかを話すシーンがあって、それが、
苦しくなって無になりたい
自分が男であることとかそういう枠組みのなかにいるのが苦手で、何者でもなくなってしまいたいような気持ち
と話し、それに対してあやめという人物が、自分の走っている理由もこれに近い、全然うまくいえないけど走っているときって孤独でその孤独はわずらわしい孤独から解放してくれるいい孤独っていうか
と返すのですが、本を読んでいて、思いがけず普段感じていることに刺さると、あ、出会った、と思ったりしませんか?笑
圭吾みたいに苦しくなりたいまではないけど笑、枠組みを気にしない時間があってもいいんじゃない?というのはヨガの時間を提供する大きな動機のひとつでもあります。
母である、父である、会社員である、男である、日本人である、とか、優れている、いない、役に立つ、立っていない、とかヨガしてるときってフラットになれるというかそれを超えてただひとりの人間として存在してるという感覚でいられます。
それはヨガだけじゃなくて、音楽でもスポーツでも同じ要素があると思います。
ときどきプロフィールに「2児のママインストラクター◯◯」とか肩書きつけているの見かけるけど、肩書きをつけるというのは、同じ似たような人どうしで仲良くなりたい、という意識的か無意識か見えない意図が隠れていると思うので、少なからずある程度の閉鎖性が生まれると思っていて、でもターゲットをそういう層に絞るという点ではありなのかと思うのだけれど、わたしはこれに嫌悪感を感じるのはその閉鎖性がニガテなのと、そういう枠組みなく楽しんでもらいたいというのが大きいからだと思います。
そんな感じで開かれた場所にできたらな〜と思っています![]()
読んだ本「きみだからさびしい」
大前粟生 著
