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私がウマウワカで滞在しているフアンさんとアルデナさんの長女ニナちゃんは、私の面倒を一番よく見てくれていると言ってもよい。朝ごはんの準備から、何が足りないとか、家の勝手や使い方とか、10才とは思えないほど大人びている。
仕事で忙しくしている両親に代わって、村を案内してくれた。定番の村の中心にある広場からお土産屋さん。
「丘の上に行ってみたい?」
ニナちゃんの提案でウマウワカが展望できる場所へ行くことになった。
「タクシーで行った方がいいから、私が値段交渉するわ」
さすが南米の子供。大人のタクシー運転手相手に見事な交渉ぶりをみせる。
「この丘の上にオスカーおじさんがいるんだけど、行ってみる?」
一見、人が住んでいる気配など全く無い乾燥した岸壁地帯の場所である。ニナちゃんは迷いなく歩みを進める。彼女には道が見えているのだろう。私は標高の高さから、早歩きするとすぐに息があがってしまう。
急な上り坂を登りきるとフェンスが現れ、その向こうに家らしき建物が見えた。こんなところに住んでいる人がいるなんて。
「オスカー!」
オスカーさんはコカの葉で口を膨らませながらヤギの世話に追われていた。土でできた簡素な家、20匹のヤギと3匹の犬と暮らしている。あまりにもシンプルな生活風景に、私がなぜか寂しい気持ちがこみ上げてくる。毎日何を感じて生きているのだろう。
「僕はパンパ県で生まれ、ボリビアをずっと旅していた。チャランゴをきっかけに30年前からここに住み始めて、今じゃヤギをやってるよ」
尻尾を振りながらオスカーさんに飛びかかるヤギたち。彼が作っているヤギのチーズを買って別れた。オスカーさんは笑顔で私たちを見送り、ヤギの小屋へ戻っていった。
「オスカーさんは一人で寂しくないだろうか?」と私が聞くと、
「寂しくはないよ。ヤギや犬と話ができるから。自然に囲まれているから豊かなんだよ」
そうか、私はいろんなものを見過ぎてしまったのかもしれないな、そう思った。
「あの丘の一番高いところまで登りたい?」
私の足は家の方向を向いていたが、せっかくのニナちゃんの誘いを楽しむことにした。
「丘を登るときは、岩を触りながら神様に許可を得ながら登るんだよ。前にそれを信じなかったおばさんが、岩が割れて落っこちたの」
彼女の後について赤や白の岩に足をかけて登っていく。
頂上につくと、彼女が言った通り素晴らしい見晴らしで、ウマウワカの街が展望できた。ニナちゃんは小さな高台の上にちょこんと座ると、「こんなところに住んでるなんて、これ以上素晴らしいことはないわ」と言い、風に当たりながらずっと遠くを見たまま黙り込んでしまった。私も自分の中から溢れてくる思考に委ねた。風が冷たくなってきて、私たちは家に戻ることにした。
これまでにも中南米で子供がいる家庭に多く滞在した。そこで感じるのは南米の子供たちの成熟加減である。それは社会環境の影響か、親の教育かはわからないが、私が強く感じる、南米の親の教育のポイントがある。それは、“Compartir”(分かち合い)を大切にしていることである。親が子供を叱るときの大半は、子供が独りよがりの時である。例えば、子供がお菓子を一人で食べていると「どうして周りの人が必要か初めに聞かずに食べているのだ」と注意を受ける。楽しいことや幸せは必ず共有されるものだというしつけをしっかり行う。子供達はそれを自然に身につけながら大人になっていく。だから彼らにとって助け合ったり、尽くしたりすることは当たり前のことで、その人との時間を共有することにこそ価値があると思っているのかもしれない。
ニナちゃんと過ごした時間から、そんなことを思った。
ERIKO