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サンクトペテルブルグでの滞在を終えて、ヘルシンキへ戻り、1泊して日本へ帰国した。PCの充電器が故障し、ずっとパソコンが使えなかったが、ようやく充電ができた。
先週末は、ロシア人の友人ユリアの家族が持つダッチャで過ごした。農耕民族の名残であると思うが、ロシア人の80%がダッチャと呼ばれる別荘を所有している。ダッチャは優雅に週末を過ごす場所などではなく、主に畑作業をする場所で、ここで収穫したものを普段の街での生活の足しにする。
この所ロシアでは物価が上がっており、私が滞在している家の人も、魚やフルーツなどが高くてなかなか買えないと嘆いている。食事はマカロニやジャガイモ、スープなどがほとんどだ。ダッチャの家の造りは簡素で、トイレなども外にあり、電気が通っていない場合も多い。私が訪れた日はとても天気が良く、私たちは散歩をしたり、野菜を摘み取ったりして時間を過ごした。
ユリアのおばあちゃんはサンクトがまだレーニーングラードだった時代を過ごした人。私にその当時の住民カードを見せながら、シベリアに住んでいた時の事や「ソ連時代はよかった」という話をしてくれた。ソ連時代を体験していない若い世代と違い、その時代を生きていた人々のほとんどはソ連の時はよかったと口を揃える。私は彼女に祖父が捕虜だったことを話すと、深く頷いただけだった。
西洋文化で新しい風が吹いた時代の境遇といい、ロシアは日本ととても似た歴史を辿ってきている。西洋的に見える街や生活の奥に、彼らがもともと持っている習慣や振る舞いが根いている。「私たちはアジア人だから」と学校の先生がよく口にするところにもその断片を感じる。
ロシア人というのはある種の哀感を感じさせる人種である。国が辿ってきた過去の記憶、冬の厳しい気候の中での生活、何がそう感じさせるのかわからないが、音楽といい、人情深さといい、大きな痛みを負った者だけが知っている人間の底のようなものを見つめるような許容感を持っている。その人間らしさが切なさと、深い共感のようなものを感じさせるのかもしれない。
ダッチャからの帰りのバスは、小さなりんごや野菜を抱える人たちでいっぱいで、オンボロバスの人々の生活の匂いに混じって、新鮮な匂いが香ってくる。彼らは袋いっぱいの食べ物を膝に乗せ、窓の外を遠く見つめている。彼らの見つめるぼんやりとした目線の先には、その風景の奥に一体何が見えているのだろうか。
私はロシアに来る度に決まって一度は失望する。国や環境に対してではなく、言語にだ。今回も5年前に来た時と同じく、教科書や全ての勉強道具を捨ててしまいたいと思った。
そんな投げやりや気持ちになるとき、ロシア人の温かさや、ユリアのおばあちゃんのような人の話が聞けたりと、なんだかんだロシアに救われ、もう一度机に戻る決意ができるのだった。
またいつかここへ来るとき、ロシアはロシアのままだろうか。ロシアは、私が知る世界において全く別のイメージ、存在の可能性を見せてくれる国である。フィンランドへ戻る電車の中、私はこの土地に戻ってきて良かったと、心からここに来る決断をした自分を褒めてあげた。