メキシコ滞在最終日、すなわち旅最後の日を迎えた。
1年4ヶ月に渡る旅が終わりを迎えようとも、何をしようとも、今日の日はやってきたし、生きていれば明日は高い確率でやってくる。そうやって当たり前のような時間の流れの中にこれまでもいたのだ。
昨日は予定していたトルーカへの登山は相談していた旅行会社との日程が合わず、断念せざる終えなくなった。
家でパッキングや帰国準備に励み、夜はカレーライスを作って振舞った。子供たちはとても気に入ってくれたようで何度もおかわりを食べてくれた。さすがメキシコ人の子供、辛口のルーだったが、6歳になるアリアナは、「何も辛くない」と言ってパクパク食べていた。
今日は朝、フアンの出勤と同時に町へ出て、郵便局や銀行へ行くなどの用事を済ませて、日本メキシコ学院を訪問した。
日本コース校長の渡辺さん、メキシココース校長の川村さん、そして文化センター部の井上さんが対応してくださった。ちょうど夏休みに当たる今の時期は、授業がなく、生徒のいない学校は少し寂しいが、明るい3人の方と日系社会やメキシコの話などで花が咲いた。
36,880㎡の敷地内に13棟の校舎が建つ立派な学校は、第二次世界大戦で敵国であった日本人から押収した財産を、メキシコが返還したことがきっかけで、田中角栄元首相とエチェべリア元大統領によって、1975年に建てられた、まさに日本とメキシコの友好を象徴する建物である。
建築は、国立人類学博物館などの設計を務めたメキシコの建築家、ラミレス・バスケスのグループによるものである。
学校は文部科学省の管轄する日本コース、メキシコの教育制度に日本語のクラスを取り入れたメキシココース、そしてバイカルチャーの幼稚園と分かれている。
現在メキシココースには860人、日本コースには130人の生徒が通っている。日本メキシコ学院は、日本人や日系人のみの対象ではなく、メキシコ人を含めた総合学校で、このような形態を持つ日本学校は他にない。
学校内を見学させてもらう。運動場やプール、体育館などの設備もとてもしっかりとしていて驚いた。
また、横浜の翠陵中学高等学校と姉妹校提携を結んでおり、高校生を対象に2週間の交換留学制度や、メキシコ・シティーと姉妹都市である名古屋との交際交流なども行っている。
こう見ると、メキシコと日本の長い交流の歴史の深さを感じられずにはいられない。
ラテンアメリカでたくさんの学校を訪問してきたが、ここが最後の訪問先となった。
私の訪問を歓迎し、丁寧に学校案内してくれた日本メキシコ学院の先生方に改めて御礼を言いたい。本当にありがとうございました。
左:川村校長先生 中:渡辺校長先生 右:文化センターの井上さん
学校を訪問した後は、メキシコを代表する、インディへニスモの画家、フリーダ・カーロ博物館を訪ねた。
彼女の両親が建てた真っ青な外壁の家は、彼女の生家でもある。
父親は写真家でドイツ出身のハンガリー系ユダヤ人。母親はメスティソであった。
彼女の数奇な人生は、彼女自身に絵描きの人生を歩ませたようでもある。
1925年、学校へ通学中、乗っていたバスが事故に遭い、生死を彷徨う重症を負った。その事故の後遺症と傷みは彼女に心の痛みを伴わせる。病院での退屈さと痛みを紛らわせるために、彼女は絵と向き合い始まる。この時、母親が天井に付けた鏡が、彼女が多くの自画像を描くきっかけとなった。
1929年には、自らの指導者であった、画家のディエゴ・リベラと結婚。しかし、リベラの女性関係やフリーダの妹と関係を持ったことが原因で、彼女は家を出て作品製作に精を出す。
数年後には離婚を決意し、「青い家」へ戻るも、再発した脊髄の痛みと右手の急性真菌性皮膚疾患を患い、思いを寄せ続けるリベラへ再婚を提案を行った。
1940年に彼らは2度目の結婚をし、「青い家」での生活を始める。その後も病状は悪化し、右手の切断手術を余儀なくされ、1950年頃には、寝たきりの状態で作品を描き続けた。彼女の死は、肺炎を併発したことによるもので、当時47歳だった。
博物館の前は、長蛇の列が出来ていて、チケットを買うのに30分以上もかかった。
彼女の家であった博物館には、彼女の作品や生活していた場所、夫であったディエゴ・リベラの作品が展示してある。
フリーダ・カーロに起こった様々な人生の出来事を形容詞にすれば、“幸せ”という言葉は適当ではないかもしれない。彼女の絵は、不安や苦しみの状態から生み出されたものの方が多い。
きっと本物の絵は、強烈で独特なエネルギーを発しているだろうと想像していたが、実物は物静かで客観的な印象を持たせるものだった。
特別展示では、彼女が身に着けていた衣服やアクセサリーも見ることができた。フリーダは体のハンデを隠すためと、ディエゴが好んだメキシコの民族衣装を身に着けていた。
その民族衣装は、彼女の母親の出身地であるオアハカ州のイツモ・デ・テウアンテペックの人たちが着用しているものであり、力や独立のシンボルでもあった。
博物館の壁に書かれているフリーダの言葉や彼女の作品を見ると、夫であったディエゴ・リベラと病気の存在は、彼女の人生の指揮をとり、作品を生み出す運命的な“理由”であったように思う。彼女が住んだ「青い家」は、憧れの空に近い所にいたいという彼女の願いの色でもあった。
"Yo sufrí dos accidentes graves en mi vida, uno en el que un autobús me tumbo al suelo... El otro accidente, es Diego."
(私は人生で2回の大きな事故に遭った。バスで地面に叩きつけられたこと。もう一つは、ディエゴという男に出会ったこと)
約1ヶ月滞在したメキシコ。メキシコに到着するまでは、予習するにも様々な場所や文化があり過ぎて、何から知っていけばいいのか分からない国だった。それは1ヶ月経った今もさほど変わっていない。
どんなに近い距離でも場所が変われば、歴史や習慣も変わる。他の国でももちろんあることだが、こんなに特徴が変わる国は初めてかもしれない。知れば知るほど、知らないことが増えていく。
メキシコを表現するための形容詞を見つけるには、まだまだたくさんの時間をここに費やさなければいけない。
しかし、場所によって特徴が変われど、メキシコ人は明るく情に敏感な人たちであった。
ユカタン半島周辺に住むマヤの末裔たちはおっとりしている印象を持ったが、メキシコ・シティーへ来たとたんに、男性が内側に潜める、多少高圧的な、アステカ人の魂を感じることが多かった。彼らは確実に彼らの先祖の血を引き継いでいる。
また、日本とメキシコが築いた絆を歴史を辿ることで垣間見ることができた。私は日本人の先輩たちが築きあげた、信頼や親しみという土台の上にいるのである。
D.Fで滞在させてもらったフアン一家は、私が滞在した家族の中でも特に気が合った、本当に居心地の良い家族だった。彼らのお陰で、私のメキシコへの理解はずいぶん深まったように思う。
「我々の家を選んでくれてありがとう」
最後の夜は、この9日間で共有した時間を振り返り、またいつか来るかもしれない再会を願った、旅の最後の日に相応しい夜となった。
まだ日本へ帰るなんて実感は湧かないまま、刻々と飛行機の時間は迫っている。
モレというソースを使った鶏肉とメキシコのご飯 モレはお祝いごとなどで振舞われるメキシコの伝統料理
ERIKO