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カンクンへの移動日、フェリーで本土に戻る前にマヤ遺跡と島を一周することにした。今日がキンタナロ州の州知事を決める選挙投票日とあって、昨晩は夜中の12時以降、コンビ二やレストランではお酒の販売が禁止され、町は土曜日だというのに人気もなく静まり返っていた。
毎朝決まったようにスコールが降るが、朝食を食べ終わる頃には約束したようにピタリと止む。
朝食で毎日顔を合わせるウエイターのハイメさんともすっかり仲良くなった。テラスのようになっているレストランでは、外からおこぼれを狙う我が物顔の鳥たちをハイメさんは白いナプキンを片手にせわしなく追い払う。お客さんの前では迷惑者のように振舞うが、誰もいないときには横目で優しく見逃してあげている。彼は還暦に近く、このホテルで30年以上働いている。毎日ホテルのサービスをフルに活用できるよう、いろいろとアドバイスしてくれた。私が今日で最後日だと言うと、眉間を引き上げて、「このホテルでのサービスが旅の良い思い出の一部になりますように」と少し寂しそうに頭を下げた。
コスメル島はその昔、豊穣や愛の神であるイスシェル(白い顔)が祭られる巡礼地として、多くのマヤの人々を惹きつけた土地であった。
イスシェルの祭壇が残る、サン・ヘルバシオ遺跡を訪ねた。
ホテルやリゾート地が立ち並ぶ繁華街を離れ、民家を抜け、緑に囲まれた一本道を進む。大都会から一気に素朴なラテンアメリカの風景に変わる。遺跡には多くのアメリカ人グループの姿があった。
ガイドはイッツァ語を話す、マヤの末裔でコスメル出身のホルへさん。イッツァ語はグアテマラのキチェー語に似た発音で、guturalといわれる喉音の音声言語である。蒸しかえるほどの暑さだが、蚊の多い遺跡内はホルへさんのように長袖とパンツが最適である。
サン・ヘルバシオ遺跡は、1840年にアメリカのカーネギー財団、ハーバード大学、ナショナル・ジオグラフィックが共同で考古学者を派遣し発掘調査が行われた場所であり、未だに未調査の敷地が広範囲残っている。
ここに祭られていた、イスシェルの神は、若い女性、母親、老女のシンボルであり、薬、性、子宝、豊作の象徴でもある。また農業に必要不可欠な月とも深い関わりを持っている。
マヤ文明が存在した地域だけではないが、私がこの旅で会った中南米の庭師のほとんどは皆月の満ち欠けを見ながら手入れを行っているのが通常であった。先日セノーテへ行った際に付いてくれたガイドさんも、月の満ち欠けによる木の伐採方法やそれによる用途の変化、有毒化するものなどを説明してくれた。
月や太陽の動きを見ながら季節や時期を読み取り、適切な種まきや収穫の時期を計算していたマヤの人たちにとっては、月、太陽、星といった天体の動きは、生きていく上で欠かせないものだったであろう。
物質主義が先行する今の世の中だが、私はそういった地球の呼吸を感じられる人間でいたいと思う。
コスメル島には現在でも乾季の12月に、子宝や豊穣を願うマヤの末裔たちが、”チャーチャク”と呼ばれるイクシェルの神のための儀式を行っており、特に結婚をする日とされる12月8日は、多くのマヤの末裔がこの日を待って結婚を迎えている。
サン・ヘルバシオの遺跡は、グアテマラなどで見た巨大遺跡と比べれば規模は小さいが、私にとっては昔のマヤの人々の思いが巡った場所を訪問できるという、とても意味のある特別なことである。
今は彼らの生き様を見ることはできないが、彼らが生活したであろう実際に場所に立って想像し、今このときの風や匂い、風景や音を感じる。時空を越えて、今はなき彼らの思いに自分の気持ちを寄り添わせる。それが遺跡巡りの醍醐味ではないかと思う。
コスメル島最後は、チェン・リオ海岸で泳いだ。真っ白の砂浜の透明度は抜群で、浅瀬で水に浸かるとちょうどいい海水の温度と水質が体を包み込み、まるで天国を思わせるようである。
4時のフェリーに乗ってプラジャ・デ・カルメンへ戻り、夕方にアメリカのリゾート地を思わせるような町並みのカンクンへ到着した。
ERIKO