
上空から見たベリーズの地
6/21
昨晩は家でカレーを作って振る舞った。ソリスさんも私もカレーを食べるのは随分久しぶりで、子供達も喜んで食べてくれた。
今日から国内の村を訪問する。空港に到着したのは出発の15分前。パスポートも不要なチェックインはちょっとしたバスに乗るような感覚である。
空から見るベリーズの地はほとんどが湿地帯。巨大な水たまりに森がいくつもあるようである。
フィリップ・S・Wゴールドソン国際空港で他の乗客を拾った後、ダングリガに到着した。手配してもらっていたタクシーで、今日から滞在するホプキンス村を目指す。
お客さんは私だけで、係のアヴィラさんがゆっくりと館内を説明してくれた。ざっと見渡しただけでも、かなり詳しい博物館であることが分かり、眠気は一気に吹き飛んだ。
入り口には外交官であり、ユネスコの第8代事務局長を務めた、松浦晃一郎氏のサインが書かれた、ガリフナ言語と舞踊、音楽の世界無形遺産の称号が飾ってある。
ガリフナ(通常は複数形で“ガリノグ”と呼ばれている)は、アフリカ人とカリブの先住民族(アラワク族、ワラク族)の混血の末裔で、ニカラグア~ベリーズにかけて居住している民族である。
ホンジュラスのロアタン島で滞在したプンタゴルダ地区は、カリブ海に浮かぶ小さな島、セント・ビンセントからジャマイカを経由して、ガリノグが始めに居住を始めた場所である。
『博物館の名前にもなっている、Gulisi(グリシ)は、セント・ビンセント島でガリフナのリーダーを務めていた、ジョセフ・チャトイヤーの娘で、13人の子供を連れてダングリガに居住した初めてのガリフナ族の女性の名前です』
私はこれまでアフリカ人がカリブへやって来たのは奴隷貿易が始まってからだと認知していたが、そうではないことが分かった。
アヴィラさんの英語はガリフナ語訛りで聞き取りづらいが、彼女は白いきれいに整った歯をしていて、笑顔がとても可愛らしく、自然と目は彼女の口元へいってしまう。
アフリカからカリブ諸国への奴隷移民が始まったのは1635年。その後、ガリノグはジャマイカを経由し、ホンジュラスのロアタン島に辿り着く。
『ベリーズへガリノグがやって来たのは、1802年です。ホンジュラスの内戦に加担し負けたガリノグが逃げ延び辿り着いた先がベリーズでした』
当時ジャングルでマホガニーの切り出しに使われていたマヤの人々とガリノグが手を組んで攻撃するのを避けるため、ガリノグはマヤ族が住む場所から離れた湿地帯へ居住地を置かれた。それが現在のホプキンス、ダングリガ地区である。
『私達の先祖には厳しい差別の目が向けられていました。ガリノグには学校や病院などの設備が不十分で、随分と大変な思いを経験しました』
トーマス・ビンセント・ラモス。ホンジュラスのコルテス出身であった彼が、ガリノグの救世主となる。
1887年9月17日に生まれたラモスは、1914年、エルサ・マリアン・フエンテスとの結婚を期にダングリガへ移住する。彼自身ガリフナ族であったラモスは、ベリーズでガリノグのコミュニティーが抱えている問題を真剣に捉え、教育のあった彼は、自ら学校の教師となり、Carib Development and Sick Aid Society(のちにCarib International Society)と呼ばれる医療組織を作り、ガリノグの医療発展や様々な権利獲得のため、政府と交渉し、ガリノグの生活を助けた、まさに救世主である。
『今ではガリノグがベリーズに到着した記念日として、毎年9月19日は“Garifuna Settlement Day“(ガリフナ入植記念日)祝日になっています。ガリノグがベリーズに認められた証でもあります』
聞き慣れないガリフナ訛りの英語に何度も同じ説明を求めてしまったにも関わらず、アヴィラさんは最後まで笑顔で一生懸命説明してくれた。3度目に聞いても分からない時は、2人で笑い合った。気がつくと小さな博物館に2時間半も滞在していた。時間なんて確実なようで実感など全く湧かない幻のようなものである。
今日はアポなしで行ったため、校内を案内してもらうのは難しかったが、写真の許可と子供達との交流の場を持たせてもらった。
博物館と学校訪問は今日から始めるガリフナの村、ホプキンスでの滞在をより有意義なものにしてくれること間違いない。
※上記の内容は全てグリシ・ガリフナ博物館で聞いた情報を記載しております。
This travel supported by BPRP
☆El plato del hoy☆ 今日のご飯
ERIKO