
マサヤ火山
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ニカラグア最終日。まだまだ訪れたい所だらけだが、観光名所でもあり訪れる価値のある場所を絞り、グラナダとマサヤを訪れることにした。
朝食のガジョ・ピント(赤飯)はパナマに滞在していた時からかれこれ1ヶ月以上は食べ続けている。
v今日もホルヘさんの運転でマナグアから30km離れたマサヤへ向かう。マサヤは火山や花、植物、民芸品などで知られている町。
去年の4月頃に噴火活動が確認されたばかりのマサヤ火山(またはポポガテペ=チョロテガ語で“火傷の山”)では、火口付近まで車で行くことができる。サングラスをかけたままで入場券売り場へ行くと、ニカラグア人料金で通過できた。我々は冗談のつもりだったのだか・・・
今日の風向きは強い硫黄臭のする煙が駐車場の方へ流れ、むせて5分もいられないほどだった。無言で煙を出し続ける山の自然の強さを生々しく感じた。
昔この周辺に住んでいた先住民族からは、魔女の神様が火口の奥に住んでいて、彼女が助言をすると信じられていたため、子供や乙女を生け贄に捧げていた。山頂には十字架が立てられているが、それは1529年、スペイン人の牧師、フランシスコ・デ・ボダディジャがここに着いたとき、“地獄の口”だと言ったことからである。またこの火口には、反ソモサ政権の人々が投げ入れられたという記録も残っている。
マサヤマーケット入り口
『ここは観光客用だから、庶民のマーケットも見に行こう』
ニカラグア人御用達の“Mercado Central”(中央マーケット)の入り口は靴を作っている労働者でいっぱいだった。
奥へ進むと民芸品や生活雑貨などの店が並んでいる。物の質はマサヤマーケットと変わりないが、金額は断然安く交渉の融通が聞く。ニカラグアは革製品がとても有名で品数も多く、ヘビ皮の財布と牛皮のバッグが2つで40ドルで手に入った。売り手の小学生とその母相手に何十分もごねたかいがある。久しぶりに自分の物を買った。
観光施設、屋台、道行く人など、ニカラグアで出会う人々から感じるのはとても謙虚で親切な姿勢である。これまでニカラグアの国外で聞いてきた低評価な印象とはまるで違う。人の印象が良いと、どこへ行っても行ってよかったと思える。
10月17日広場のバー ニカラグアには酔っぱらいが多いため、深酔い対策で設置されているそう。
“Nicaragua es Granada, lo demas es monte…”(ニカラグアはグラナダ、それ以外は山・・・)グラナダを愛するグラナダ人がよく言う言葉である。グラナダは1524年にフランシスコ・エマンデス・デ・コルドバによって創立された。植民地時代はニカラグア湖やサンフアン川を経て、大西洋へ通じる港として栄え、レオンと長い間首都を争った都市である。
広い範囲でコロニアルの街並が残っており、コロンビアのカルタヘナを思い出させるようである。大聖堂の周辺にはレストランやバー、ツアー会社などがある。
日が沈む頃に、ニカラグアに入国して最初に見たニカラグア湖を見て、ニカラグアでの最後の景色を見納めた。ニカラグア湖はチチカカ湖に続いてラテンアメリカで2番目に大きく、Agua dulce(淡水)にも関わらず、世界で唯一サメが生息している湖である。
ニカラグアは今から24年前まで内戦が行われていた国である。家族のホルヘさんも17才~19才までの約2年間、戦争へ出兵した経験を持っている。
ホンジュラスとの国境でサディニスタ革命政権とコントラと呼ばれる反革命傭兵軍が戦った内戦は10年間続いた。
現在のニカラグアには軍隊はあるが小規模で、使われた兵器はマナグアの平和公園に埋められている。
内戦が終わっても、ホルヘさんの体には銃弾の跡が残っており、今でも睡眠障害の症状を患っている。ホルヘさんのお母さんは内戦中、毎日涙を流さない日はなかったと語った。
ニカラグア人の情深い親切心や優しさは、内戦の苦労を乗り越えて生まれたものかもしれない。
中南米ではハイチに続く最貧国と言われているが、ダニエル・オルテガ政権はここ3年で、医療制度、教育、騒音やポイ捨てなどの生活環境、道路、公園など、国民が手に取って分かるほど様々な政策に取り組み、結果を残している。中南米では外からよく見えるものに多く投資をし、実際の国民の生活を考慮していないような国も多いが、ニカラグアはその点、着実に足下を見て改善に取り組んでいるのが見て取れる。
今日のマサヤ、グラナダまでの道路もきちんと色線が付けられ、不整備な所は一カ所もなかった。近所の人達がゴミのポイ捨てを注意し合う姿を見ると、これからのニカラグアの成長がとても楽しみになる。