日系人連絡会会長 フランシスコ宮坂さん


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 来てみなければ分からないことだらけのキューバ。
先日日系2世の荒川さんにお会いして、今日はキューバ日系人連絡会会長のフランシスコ宮坂さんにお会いすることができた。

 朝10時にアバナの中心にあるホテルで待ち合わせをした。
観光客で溢れかえ、贅沢に装飾されたロビーとレストランは、質素なアパートが立ち並ぶ住宅街で1日
1日を懸命に生きるキューバの姿はなく、私には別世界のように映った。
『フランシスコさんですか?』
アジア人の顔をした品のよさそうな男性に声をかけると、『そうです、初めまして』と流暢な日本語で返事をしてくれた。

 フランシスコ宮坂さんはキューバのちょうど真ん中辺りに位置する
Ciego de Avila(シエゴ・デ・アビア)生まれ、74才の日系2世。
ハキハキとした口調と健康的な体からは年は全く感じられず、今も現役で商社を経営している。

 伊達政宗から遣欧使節団として
1614年に仙台から送り出された支倉常長が日本人として初めてキューバの地を踏んだ後、1916年に“小川移民”と言われる最初の日本人の集団移民が行われ、75名の日本人がキューバへ移民したのがキューバ日本人移民の始まりである。
第二次世界大戦が始まり、キューバは対日宣戦布告を行い、日本人男性
350人がIsla de la Juventud(青年の島)にあるプレシディオ・モデロへ収容された。フランシスコさんのお父さんもその一人であった。
戦争が終わった後も、
1959年に始まったキューバ革命によって、これまで築いた個人財産が国に帰属することになるという2度の大きな悲劇に見舞われている。

『父は長野から移民した庭師でした。ある日家に2人の兵隊が来て、父を間に挟み連れ去って行きました。私はまだ幼かったですが、兵士に連れ去られて家の前の細い野道を歩いていく父の背中は今でも昨日のことのように覚えています。そのあと母は一人で私達兄弟を育てあげました。その姿を見て日本の女性は強いと感じました』

 幾度となくこの話をしてきたからだろうか、想像しただけで胸が詰まるような話をフランシスコさんは淡々とする。キューバの移民の歴史はブラジルより古い。
現在は約
1,100人の日系人がおり、唯一の1世である島津三一郎さんは青年の島に住んでいて、現在104歳である。
日本政府の政策移民でなかったにしろ、これまで訪問した国でキューバに日系社会があるという話をほとんど聞くことがなかったのは、今キューバにある日系人協会が国から未承認であることや、経済的な理由から世界各地で行われる日系の会合等に参加できないことが大きな理由であるかもしれない。社会主義という国柄から、他の国でよく見かける日系人成功者といった人も存在しない。車はおろか、電話も持っていない人もたくさんいる。
そんな中でも最近は2ヶ月に1度会合を開いたり、日系人慰霊堂の参拝を開始し、名簿の作成を行ったりし始めている。
キューバの日系人達がルーツである日本を自由に訪れたりできるのは遠い先のことかもしれないが、ここにもたくさんのふるさとのことを思う人達がいることを忘れてはならない。



        参拝させてもらった日系人に慰霊堂




                  慰霊堂の中


ERIKO